ゴンポリズム

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書評:村上春樹「沈黙」

レキシントンの幽霊』に収録されている「沈黙」という作品を今回は取り上げたい。この作品はなんでも中学の集団読書用テキストに掲載されているようで、意外と知名度は高い。

 

正直言うと、この短編は村上春樹のいつもの作品と違い、謎解きや不思議な要素があまりなく、どのように書くか迷った。他の書評を見てみると、学校教育や友人関係、いじめのような視点から書かれていることが多かったし、それは確かに正攻法だろう。また、一部の読者は語り手である大沢さんの言動に不信感を持ち、彼が言う「青木のような人間の言うことを無批判に受け入れる」ということを、彼自身と物語全体に当てはめようとしていた。いわゆる「信用できない語り手」の手法であり、確かにと思ってしまった。

 

集団読書用のテキストらしく、大沢さんの視点で語られるゆえに、客観的な事実が最後まで見えないのが、この物語の面白いところだ。大沢さんの語りから伺えるのは、青木に対する並々ならぬ憎しみである。丁寧に読んでいくと、その憎しみにはあまり根拠がないことがわかる。クラスの人気者である彼への生理的な拒否感、殴ってしまったことに対する罪悪感の欠如、クラスメイトの自殺に対する素っ気無さ等、あまりにも自分の世界に閉じこもってしまい、視野の狭さが気にかかってしまう。

 

ただ、そのような偏った視野は誰にでもあるだろうし、青木もその点は同じだろう。しかし、何より怖いのが、彼の青木に対する憎しみがその周りの人々にまで広がってしまった点である。もちろんそれは教師に裏切られたという思いが発端にあるだろうし、彼をただ責めるものでもない。しかし、大沢さんは発言できない状況に陥っていたわけでは無かった、つまり、自殺した松本と違いそれは「声なき声」ではなく、自身のプライドが選択肢を狭め続けた結果である。少なくとも「青木に踊らされている連中」にとっても幾ばくかフェアではないように思う。

 

ただ、仮に松本と大沢さんに決定的な違いがあるにせよ、「沈黙」せざるを得ない状況に陥ったとき、負の感情は拡大していく。大沢さんの悪夢に出る顔のない人々は、実は彼の自己投影に過ぎない。現代社会においては自己完結した世界というものはフィクションであるからして、自らコミュニケーションを放棄した者が、その周りの人々の顔を描けないのは当然である。大切なことはどのようにして他人の顔を自ら描いていくか、ということではないだろうか。

 

 

 

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)