ゴンポリズム

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書評:村上春樹「象の消滅」

 今回読む小説は、またしても村上春樹の作品だ。初期の有名な短編の一つだが、意外にもネット上の書評は少ないように思う。彼のこの時期の作品はメッセージ性の強い荒削りなものが多く、えてしてまとまりすぎた中期以降の短編と比べると、逆に感想は書きやすい。

 

 表題の通り、とある町で象が消滅する物語である。町の郊外にある動物園が経営難で閉園することになり、動物たちは全国各地の動物園に引き取られていく。しかし、老齢の象だけ引き取り手がない。動物園があった土地は高層マンションが建てられる予定で、既に宅地業者に売られてしまっている。この事態に、動物園と業者、町の三者が協定を結ぶことになった。町議会で紛糾しながらも、結果的に像は町有財産となり、象舎の落成式に至る。そして、一年後、象は、唯一心を許した飼育係とともに「消滅」するのである、象につけていた足枷や頑丈な柵を壊すことなく、また、周りに足跡さえなく。結局、何の手がかりもないまま、数ヶ月が経ってしまう。

 

 物語の前半で像が消滅したこれらの経緯が語られるが、後半から場面の雰囲気はガラリと変わる。キッチン用品の営業をする「僕」は女性にこう言う。

 

 「いちばん大事なポイントは統一性なんです」と僕は言った。「どんな素晴らしいデザインのものも、まわりとのバランスが悪ければ死んでしまいます。色の統一、デザインの統一、機能の統一―それが今のキッチンに最も必要なことなんです。(58)

 

 この世界では、どんなモノもまわりとの関係で、つまり、全体の統一性とどう関わっているかによって、その価値が決まってしまう。全てのモノは色、デザイン、機能といった画一的な基準によって判ぬ断され、それらは商品になるか(=価格)という、より大きな基準に内包されている。その統一性から外れたモノは、それが固有に持つ唯一性や美しさに関わらず決して評価されることはない。ただ世界から捨象されていくのみだ。

 

 そのような構造的な世界は、表面上は規則正しく動いているように見えるだろう。「波風も立たないし、複雑な問題も起き」ない(60)。しかし、実際は見かけだけ綺麗に取り繕ったハリボテの世界である。僕の言う「便宜的」という言葉は、一時の間に合わせのために処理すること、という意味だが、まさにこのような世界を言い当てている。

 

そう考えたとき、落成式の様子は象徴的だ。町長の演説や小学生の作文、スケッチ・コンテストなど、予定調和で形だけの儀式が淡々と行われる。当の象は、「殆ど身動きひとつせずにそのかなり無意味な―少くとも象にとっては完全に無意味だ―儀式にじっと耐え」るのである。(47)

 

話を二人の会話に戻そう。僕はホテルのカクテル・ラウンジで、象の消滅の話とともに実は僕が象の最後の姿を見た人物であったことと、その時の不思議な光景を打ち明ける。

 

「つまり大きさのバランスだよ。象とその飼育係の体の大きさのつりあいさ。そのつりあいがいつもとは少し違うような気がしたんだ。いつもよりは象と飼育係の体の大きさの差が縮まっているような気がしたんだ」(68)

 

 

「冷やりとした肌あいの別の時間性が流れている」象舎の中では、「二人きりになったときの象と飼育係は、人前にその公的な姿を見せているときよりはずっと親密そうに見え」た(70,66)。おそらく、この奇妙な「大きさのバランス」こそ、二人の関係を最も如実に表すのではないだろうか。というのも、象にとってその体の大きさは希少価値を持つための重要な「ファクター」の一つである。私たちが象を思い浮かべるとき、大きな耳と長い鼻、そしてなにより、あの大きく、ときに畏敬さえ感じさせる図体である(だからこそ、象の飼育にあたって、頑丈な柵が設けられたし、消滅したときには人々は「〈不安な面持ち〉」(53)になる)。

 

しかし、長年付き添ってきた飼育員にとって、この象の特徴は大きさではない。象がまだ小さな頃から世話をしてきた思い出が彼の心を満たしているのであれば、彼にとってむしろその小ささこそ、象のファクターなのかもしれない。そうであれば、あの象舎に流れる「別の時間性」とは、二人の心象風景と言えそうだ。

 

 結局、一連の経過の中で、便宜的な世界を一時的にでも成り立たせる記号としての「象」でしかなかったがゆえに、その本来的な唯一性を取り戻すべく、他の時間軸の中に消えてしまったという解釈をここで提示しておくことにしたい。

 

 

新装版 パン屋再襲撃 (文春文庫)

新装版 パン屋再襲撃 (文春文庫)

 

 

 

考察:カーヴァー「足もとに流れる深い川」

 

 久しぶりにレイモンド・カーヴァーを読む。村上春樹訳『レイモンド・カーヴァー傑作選』はどれもなかなか面白いのだが、訳者自身が「一発で見事レイモンド・カーヴァーの世界の中毒に引きずり込まれることになった」という「足もとに流れる深い川(So Much Water So Much Close To Home)」はやはり出色の作品だろう。 この小説の主題は一言では言い表しにくい。明らかに読み手の共感を誘ういくつかの視点がある。それでも根底にあるのは「人生の変化に対する感受性」とでも言えるものだろう。

 心配そうな妻と苛つく夫の会話で始まる冒頭は、夫が休暇中に発見した遺体が理由だ。夫とその友人は、山中の川原で若い女性の全裸遺体を見つける。しかし、彼らは何事も無いかのように遺体のそばで釣りや酒盛りを楽しむ。しかし、どんなに平然を装っていても遺体に無関心ではいられない。しばらくして、遺体が川に流されないように浅瀬まで引きずり、手首を縛って木の根に繋ぐ。死者に対するあまりにもひどい仕打ちであるのは言うまでもない。そして、帰り際に初めて保安官に連絡し事件が発覚するが、その出来事を妻に話すのも帰宅してすぐではない。その翌朝である。

 夫らの一連の行いに、有り体にいえば妻はドン引きする。しかし、物語を読み進めていくと、彼女の違和感は同じ女性としてのシンパシーや女性をモノ同然に扱う夫への不信感だけでなく、もっと深い部分にあることがわかってくる。

 

 二つのことが明らかだった。 ⑴人々はもう、他人の身に何が起ころうが関係ないと思っている。⑵何が起こってもそこにはもう真の変化というものはないのだ。事件が起こった。それでもスチュアートと私のあいだに変化なんてないだろう。私の言っているのは本当の変化のことだ...(中略)...そしてある日事件が起こる。それは何かを変化させてしまうはずの事件だ。それなのに、まわりを見まわしてみれば、そこには変化の兆しはまるでない。(116-117)  

 

   順風満帆なはずの家庭生活に通底するのは、変化の兆しもなくひたすら老いに近づいていく日常である。夫と結婚したその時から自分の未来は決まってしまった。そして、そのうち自分も周りも日々過ぎ去っていく日常にあまりにも鈍感になる。遺体の発見というショッキングな事件でさえ、朝食のちょっとした話題として 片付けられる。そのようなことが繰り返すと、自身のアイデンティティさえ曖昧になっていく。   

 過去はぼんやりとしている。古い日々の上に薄い膜がかぶさってしまっているみたいだ私が経験したと思っていることが本当に私の身に起こったことかどうかさえよくわからない。(117)

 

 しかし、それでも事件の被害者のように、「真の変化」はやってくる。ただ、その兆しを周りが見せることもないし、たとえやってきても前と何かが変わることはない。その恐怖を被害者に重ね合わせたとき、知らないうちに自分が自分の人生を歩んでいるという感覚をなくしていき、気づかないまま一切の無になるのではないかという恐怖に駆られるのである。いつ何時、人生を揺るがす決定的な出来事が起こるかわからない。それは明日かもしれないし10年後かもしれない。知らないうちに「こんな沢山の水が、こんな近くにある(So Much Water So Much Close To Home)」ことになるだろう予感を、彼女だけが感じているし、そのうち感じなくなることを恐れている。

 

 

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (中公文庫)

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (中公文庫)

 

 

書評:フォークナー『八月の光』

ウィリアム・フォークナーと言えば、アメリカのみならず20世紀を代表する世界的作家と言われている。フォークナーを読んだことのない英文科の卒業生はいないだろうが、それでも、この作家を愛読する日本人はどれだけいるだろうか。

 

フォークナーとの出会いは大学一年生の冬休みだった。翌年から西洋史専攻になることが決まり、アメリカ史でも学ぼうかとぼんやり考えていた当時、雑貨店っぽさを売りにした某書店で、平積みされていた加島祥造訳『八月の光』を偶然目にした。表紙に描かれた淡く綺麗な平野の絵に目を奪われ(この表紙が気に入って表紙買いした人も多いのではないだろうか)、さらに、裏表紙の「…現代における人間の疎外と孤立を扱った象徴的な作品」という哲学的な宣伝文句に惹かれて衝動買いした。

 

この作品を初めて読んだときの感動は今でもよく覚えている。「これが小説なんだ、これこそ文学なんだ」という言葉を何度も呟いた(後にアメリカ文学の講義で、教授が全く同じ感想を言ったことには驚いたが…)。とは言え、それは当時の自分がその感動を上手く言葉に出来なかったからでもある。フィッツジェラルドヘミングウェイにはない、南部文学の土臭さ、田舎臭さに戸惑ったし、なによりクリスマスとリーナ以外の、脇役と呼ぶには勿体無いほど多くの個性的な登場人物が、象徴的な部分でどう結びつくのか、そして全体として何を言わんとしているのか分からなかった。それでも、夢中でページをめくり、全て読み終えたとき、あの『グレート・ギャツビー』でさえ薄っぺらく感じた。そして、20世紀のアメリカ文学を知ったような気になっていた自分が妙に情けなくなってしまったのだ。もちろん『ギャツビー』がアメリカ人の心を強く揺さぶるような「アメリカらしさ」を持つのは間違いない。それでも、フォークナーの描くアメリカ南部は、それまで抱いていたアメリカ像を根底から覆しただけでなく、他のアメリカ小説にはない質的に違った感触(ほとんどトラウマに近いもの)を自分に残していった。

 

今年の10・11月に岩波文庫から出た諏訪部浩一訳『八月の光』を読んで感じたのは、この物語が、非常にコンパクトで説得力を持った南部社会の縮図になっているということだ。

 

クリスマス、リーナ、ハイタワーの3人は南部の何かしらを象徴している。クリスマスが人種差別だとすれば、リーナは南部淑女、ハイタワーは南北戦争の記憶だろうか。この3つは南部白人精神の柱のようなものだと思うのだが、それらが彼ら(彼女ら)を通じて歪曲的に表現されている。混血の差別主義者、南部淑女たろうとする未婚の女性、神(教会)に見捨てられた牧師。彼らは南部白人社会の腫れモノであり、それは南部的価値観の境界にいることを意味する。そして、自身と社会との折り合いを模索する、言わば社会の異端者である。クリスマスがその境界線を越えようとすれば、一方でリーナは中心を目指し、ハイタワーはそこに留まる。さらに、南部白人観の境界は生と死をも連想させ、クリスマスはそれを踏み越え死んでいく。ここでの死=向こう側は顔のない(作中で名前が与えられない)黒人たちとも結びついている。黒人であることはそれほどの罪深さをもっているのだ。一方のハイタワー牧師は生死を司る番人である。クリスマスに死に場所を提供し、また、リーナからは赤子を引っ張り出してやる。

 

南部の伝統と理想の周辺で異端者がひしめき、いつでも崩壊しそうな脆い社会(実際、この約30年後には「南部の伝統様式(the southern way of life)」は境界の向こう側に住む黒人によって崩された)をすんでのところで支えるのは、なんといっても南部女性の逞しさと優しさだろう。物語冒頭に頭が弱そうな印象をもつリーナでさえ、後半になると全てを包み込む母性的な強さを見せ始め、読者は物語に登場する女性皆が、同じように力強いイメージで描かれていることに気づく(それに比べ、男はなんと弱く愚かなのだろう)。

 

ある意味では、この物語は南部白人社会の見取り図である。この小説を読み、改めて思うのはアメリカ南部の手強さである。南部こそアメリカのエッセンスが詰まっている、そう感じさせる小説だ。

 

最後に、翻訳について、岩波文庫の諏訪部訳(新訳)と新潮文庫加島祥造訳(旧訳)を比べると、全体的に前者の方が読みやすかった。しかし、ところどころ分かりにくい部分もあり、それは原文自体の独特な表現による。今回初めて分かったが、加島訳ではそこらへんを読みやすい形で書き直している。加島訳は今でも古びていない名訳と言えるが、諏訪部浩一先生の信頼できる解説と丁寧な注解、新訳らしい読みやすい日本語を考えると、岩波文庫が今後のスタンダードになっていくのではないか。

八月の光(上) (岩波文庫)

八月の光(上) (岩波文庫)

八月の光(下) (岩波文庫)

八月の光(下) (岩波文庫)

 

八月の光 (新潮文庫)

八月の光 (新潮文庫)

 

 

書評:斎藤眞『アメリカとは何か』

今回、取り上げるのはアメリカ革命史研究の大家、斎藤眞(1921-2008年)の著書である。戦後日本のアメリカ史研究を牽引した彼の名前は、アメリカ史をかじった読者なら一度は聞いたことがあるだろう。この本は、前々から多くの先生が薦めていてマークしていたのだが、運良くブックオフで買うことが出来た。

 

斎藤眞の著書でごんぽりが最初に読んだのは『アメリカ政治外交史 第二版』(東京大学出版会)だった。学生用テキストとして版を重ねていたのだが、確かに所どころ記述の古さは否めなかった。それでも各時代の要点を的確に捌きながら、著者の立場を要領よく盛り込んだ叙述は、通史にも関わらず最後まで面白く読めた印象がある。脚注にも重要というか、痒いところに手が届く説明が散りばめられ、卒論執筆時に意外と役立った。「斎藤史学」と呼んでも憚られない内容だろう。

 

さて、この『アメリカとは何か』は、9つの小論文ないしエッセイと1つの講演録からなり、内容も独立革命から「明白な運命」、反主知主義ニクソン大統領の辞任まで多義にわたる。どれも研究論文というより、実証性を残しながらも、ときにそれに囚われることなく、自由に論を展開したエッセイばかりである。読みやすく面白い。なにより各章に通底するのは、個別の事象を長い「アメリカ史の文脈」に位置づける姿勢である。章によっては少し大げさな気もしなくはなかったが、逆にアメリカの理念(筆者の言う「自由と統合」)を個々の例を引き合いに出しながら論じたという見方もできる。

 

筆者の専門と論文の時代性を鑑みれば、面白いのは建国・膨張期を論じた前半部分である。巧みな論の展開はしばしば読み手の予想の裏をかきながら、最後は上手く収束させていく。しかし、何か立派な結論を提示するのではなく、適度な議論のほつれを残すことで読み手にさらなる興味と思考を促す。   後半の章は、「アメリカ史の文脈」に位置付けるという方法論は分かるものの、少し大雑把で大袈裟な感じがあるかもしれない。しかし、歴史に学び、歴史を使う事こそ我々が歴史書を読む理由だとすれば、このように大局的見地に立ちながら、事象一つひとつの「歴史的意味」を大胆に提示するのは、歴史学本来の役割ではないだろうか。

 

そう考えながらこの本を読み返した時、まさにこの本に、いや斎藤史学に魅了された自分がいた。『政治外交史』を読んだ時に感じた、あの知的興奮を思い出さずにはいられなかった。

アメリカとは何か (平凡社ライブラリー (89))

アメリカとは何か (平凡社ライブラリー (89))

 

書評:福井憲彦『近代ヨーロッパ史 世界を変えた19世紀』

今回、取り上げるのは福井憲彦著『近代ヨーロッパ史 世界を変えた19世紀』である。もともと放送大学用のテキストらしく、近代ヨーロッパの歴史が初学者にも分かりやすく書かれている。高校世界史で学ぶ知識を少し詳しくした程度で、教科書的な記述も目立つし、人によっては物足りないかもしれない。ただ、近代ヨーロッパ史の特徴をサクッと振り返るには都合の良い本だと思う。

 

 

副題には「19世紀」と書かれているが、この本の射程は16世紀の大航海時代までさかのぼる。約400年、多くの事件が続いたこの時代を、一つひとつ掘り下げていくのは容易かもしれないが、ではそれらを大局的に振り返ろうとすると案外言葉に詰まってしまう。その意味で、フランス史研究で有名な著者が250ページで振り返ってくれる講義は、手軽で魅力的である。

 

 

レコンキスタ後のポルトガルに始まった大航海時代は、スペイン、オランダ、イギリスと続き、現代的なグローバルな世界を形作いっていく。この時代、ヨーロッパ文明を世界に広げていきながら、大西洋革命、産業革命を経験し政治・経済両面で革新的な発展が見られた。もちろん、その一方でアジア・アフリカに対する暴力的支配や、ヨーロッパ内部での格差、そしてなによりもナショナリズム帝国主義へと変容していく結果起こった世界大戦など、歴史の負の部分も見逃すことはできない。著者はそのような「近代ヨーロッパの光と陰」をしっかりと捉えることを強調する。

 

 

それが強調されるのも、著者も言うように、近代ヨーロッパは長い人類史の中でも、中世・近世からの「革命的」変化を遂げ、その歴史的特徴(成果)が多くの点で現代に引き継がれているからである。それは社会制度の面だけでなく、個々人の価値観や自意識にまで深く根を下ろしている。どれほど過去に無自覚であっても、私たちが良くも悪くも歴史的存在であることは否定できない。私たちは、私たち自身を深く知るために歴史を学ばなければならないのだと思う。

近代ヨーロッパ史 (ちくま学芸文庫)

近代ヨーロッパ史 (ちくま学芸文庫)

書評:フォークナー「あの夕陽」

 今回は「あの夕陽」という短編の感想を書きたい。フォークナーの短編のなかでも最も有名な作品の一つだが、長編と比べると感想を書いている日本の読者は少ないようだ(今後もそのような作品をなるべく取り上げようと思う)。前衛的な作品が多い長編と比べると、フォークナーの短編はどれも読みやすい。また、南北戦争以後の南部の問題意識を鋭く描いていて、当時の社会制度や雰囲気を知る上でとても勉強になる。ただ同時に、様々なレベルの読みが可能な重層性も持ち合わせていて、案外手強くもある。手軽に読めながらも、高い文学性と問題意識を感じられるところが彼の短編の魅力だろう。

あらすじ

 この作品は、あの『響きと怒り』でお馴染みのコンプソン家の子どもたちがまだ幼い頃の話だ。両親のほかに当時9歳のクウェンティン、7歳のキャディー、5歳のジェイソン、老いた黒人召使のディルシー、黒人洗濯女ナンシーが登場する。

 

 物語は、ディルシーが病気になり、その間代わりにナンシーにコンプソン家の料理を作らせるようになったことから始まる。この時、ナンシーは夫ジージアスとは別の子どもを妊娠していて、それを知ったジージアスは彼女のもとから消えてしまう。しかし、ナンシーは彼が自分に復讐すると信じ、ディルシーが復帰した後も、あの手この手でコンプソン家の人々と一緒にいようとする。

 

 このナンシーという人物は、南部白人が思う黒人女性のステレオタイプを体現している。序盤から、朝起きれない理由を酔っぱらっているからだと思われたり、貞操観念のなさ故に白人男性に体を売り、あげくに夫とは別の子を妊娠したりする。また、拘置所に入れられた際、おそらく妊娠した絶望感から自殺を試みるも看守に見つかり未遂に終わるが、その描写もどこか滑稽な感じが漂う。一方、夫ジーズアスも妻同様、素行が悪かったらしい。途中からコンプソン家の子どもたちは、父親から彼に近づかないように命じられる。そして、その少し後、彼は街から姿を消す。

謎の多い物語

 この作品は、登場人物の設定やあらすじ自体は全く複雑ではないのに、読み終えた時、腑に落ちない違和感のようなものが最後まで残ってしまう。それは、物語を通して読者の分からないことがあまりに多いからだ。なぜナンシーは拘置所に入ったのか、妊娠した子どもは誰の子なのか、ジージアスはなぜコンプソン家に近づいてはいけないと言われたのか、なぜナンシーのもとを去ったのか、なぜ警察から逃げているのか、ナンシーの言うように本当に街に隠れていて彼女を殺そうとしているのか、そして、この事件の結末はどうなったのか...。

 

 これらの謎が最後まで分からずに終わるということを、どう考えればいいだろうか。普通、小説で何らかの謎が残るとき、読者には各々の想像力によってその空白部分を埋めることが期待される。そして、そこに物語の可能性という作品的拡がりが生まれることになる。特に短編の場合、写真を撮るかのように事件や日常の一場面が切り取られることが多く、大局的には場面の前後は分からないわけで、何らかの謎は必ず残るといって良い。

 

 しかし、「あの夕陽」の場合、冒頭でわざわざ15年後のジェファソンの街を描き、クウェンティンが幼い頃を思い出すという構造を取る。だからこそ、結末を知るはずのクウェンティンがそれを語らないまま、多くの謎が放置されること、特にナンシーの恐怖が宙吊りで終わることに、読者は違和感を覚えるのだ。それは、ホラー小説によくあるような、謎が謎のまま終わることで不気味さを演出する物語的な仕掛けとは少し違うように思う。

白人から見る黒人という存在

 15年後のクウェンティンがあえて物語の確信部分を語らないのは、彼にとって15年経った今も、その記憶が意味することを理解できないからである。言い換えれば、一見ナンシーの恐怖を中心に描いているこの物語の本質は、9歳のクウェンティンという白人少年の視点から大人の黒人女性を描き、前者が後者をいかに理解できないかということを、を暴くことなのだ。クウェンティン/ナンシーという二項対立は、子供/大人、白人/黒人、男/女、という3つの要素に還元でき、それゆえ決してお互いに分かり合えない関係なのである。クウェンティンにとって、ナンシーの恐怖は三重に理解できない。そして、15年後、大人になった彼にとっても黒人女性の気持ちはやはり分からないままだ。そして同様に、多くの謎が放置されて終わるのは、白人にとって黒人世界が本質的に理解できない存在であることを示しているからだ。

 

 ただ、白人と黒人の関係は均等に断絶しているわけではない。白人は黒人をあくまで意識的には理解していると思っている。だから、例えばナンシーを「買った」ストーヴァル氏は、ナンシーがその事実を暴露したとき、彼女を殴り倒したのだ。そうすれば彼女は言うことを聞くと思っているのである。白人は一方的にカラーラインを越え、都合良く黒人を知った気になる。両者の分離は絶対的に見えて、白人から黒人へと向かう理不尽なベクトルが存在するのである。コンプソン家の台所の、あくまで「ストーブのうしろ」(94)に座っているジージアスは言う。

 

白人はおれんところの台所をうろついたってかまわねえんだよ。白人は勝手におれの家にはいってきても、おれはそいつをとめることもできねえんだ。(95)

  

 白人と違い、黒人は彼らのそういった無自覚な態度や、自らの置かれた立場をよく理解している。ジージアスがナンシーを襲う(とナンシーが思う)のは、ジム・クロウ制のもとでは、黒人が白人に理不尽な行いの復讐をすることは許されないからだ。ジージアスはそのやるせない思いをナンシーに向けるしかないのである。そして、そういった事情を理解する彼女の孤独な恐怖は、それ自体が黒人的なのものなのだ。

 

 黒人男性と違い、家政婦として白人家庭に奉仕する黒人女性は物理的には白人と近い距離を保つ。ときに妊娠までさせられる人間関係にも関わらず、しかし、ナンシーの苦しみはコンプソン家の人々に理解されることは決してない。そして、最後には藁にもすがる思いでクウェンティンら幼い子どもに助けを求めることになる。

 

 こういった文脈のもとでは、5歳のジェイソンがしばしば口にする「僕は黒人じゃないよ」という無垢な台詞はあまりに絶望的である。性別や年齢よりも人種こそが南部の人々を規定する基本的なラインであることを、あまりにも残酷に表現しているように思える。これこそがアメリカ南部で生きるということなのだろう。

 

フォークナー短編集 (新潮文庫)

フォークナー短編集 (新潮文庫)