ゴンポリズム

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記憶・青春・人生 ー「中国行きのスロウ・ボート」考察ー

今回レビューするのは『中国行きのスロウ・ボート』表題作だ。村上春樹の短編でもかなり有名な作品だと思うがその割にしっかりしたレビューが少ない、というよりごんぽりと似た考察・解釈があまりなく、一つの参考として紹介したい。

 

この記事では、二つの逸話(「野球の試合」と「中国人の話」)をめぐる「記憶」の意味を示し、この作品のテーマを明らかにしたい。以下、順を追って述べていこう。

「考古学的疑問」の放棄と記憶のパラドックス 

この小説は「最初の中国人に出会ったのはいつのことだったろう?」という「考古学的疑問」(9)から出発する。この「考古学的」という言葉が意味するのは、出会ったのがいつだったのか実証的に(ラベルを貼って区分・分析したり、図書館に行ったり)アプローチし、問いに客観的に答えるということだ。しかし、興味深いことに「僕」は図書館の前のにわとり小屋で煙草を吹かしているうちに、そのアプローチを早々諦めてしまう。

 

そして彼はこう告白する。

僕の記憶力はひどく不確かである。それはあまりにも不確かなので、ときどきその不確かさによって何かを証明しているんじゃないかという気がすることさえある。(11)

さらに、

僕の記憶はおそろしくあやふやである。前後が逆になったり、事実と想像が入れ代わったり、ある場合には僕自身の目と他人の目が混じりあったりもしている。そんなものはもう記憶とさえ呼べないかもしれない。(12)

 

しかし、こうやって自身の記憶の不確かさをあらかじめ強調しておきながら、その次の行では、それでも「正確に思い出すことのできる出来事」が二つあるのだと言う。それが小学生の頃の「野球の試合」と「中国人の話」だ。

 

ちなみにここで、「嘘つき(自己言及)のパラドックス」が発生していることは重要だろう。「自分は嘘つきだ」と言った後に「でもこれは真実だ」と言うと前後の内容が矛盾するという古典的問題だが、「僕」の記憶をめぐっても、これと同じ矛盾が起きている。記憶力に自信が無いとこれほど強調する「僕」が、その舌も乾ききらないうちに二つの記憶の信ぴょう性を断言する。

 

これは「僕」が「根拠のない自信家」だからでは決してない。「僕」がこれから語る記憶の本質が、客観的に実証不可能なだけでなく、論理的に表現し得ないものだからだ。非論理的な存在とは、言い換えれば、言葉の表現可能性や観念的な認識の埒外にあるもの、つまり、本来ならば(頭を打たなければ)、意識の表層には現れないもの、現れないゆえに主観的認識を逃れるものだ。

 

「野球の試合」:無意識と「記憶」の意味

このように、「僕」は自分の記憶を語る前に、二つの特徴を挙げる。一つは、それが客観性・実証性に還元されないもの、実際の経験を客観的な事実の記録として積み重ねたものではないものであることだ(「考古学的疑問」の放棄)。もう一つが、本来、それは意識の表層に現れず、自覚と認識を免れているということだ(「自己言及のパラドックス」)。やや抽象論になったが「野球の試合」でもう少し具体的に語られる。

 

このエピソードは、中国人についての記憶を語る前フリとして語られる。小学生の頃、野球の試合で頭をぶつけ、ベンチの上で目が覚めたとき、夢うつつの状態で、ある言葉を発する(「大丈夫、埃さえ払えばまだ食べられる。」(13))。「僕」はその言葉を口走った理由も文脈も覚えていない。ぼんやりしたなかで無意識のうちに勝手に言葉が出てしまったからだ。

 

この言葉は、「僕という一人の人間の存在と、僕という一人の人間が辿らねばならぬ道」、「そしてそのような思考が当然到達するはずの一点――死」について考えさせ、さらに、「死はなぜかしら僕に、中国人のことを思い出させる」(13)と言う。

 

「僕」がここで言いたいのは、言葉を発した「僕」という存在の意識下(無意識)に「何か」があり、その「何か」が「僕」をして言葉を言わせた、ということだ。フロイトよろしく、意識下に抑圧されたものが「僕」を行動に駆り立てた。もちろん「僕」の意志でなければ、客観的に確かめることもできない。にも関わらず、それは「一人の人間の存在」を間違いなく規定し、彼の人生を形づくるだろう。「僕」は二つのエピソードを通じて、個人の意識下でその人自身の人生を突き動かすモノの輪郭を描き出そうとする。

 

では、その「何か」とはどのようなものなのか。「埃を払えば…」という言葉と戦後中国を重ね合わせれば、人間の持つ食べ物の執着と生の欲求の片鱗が、発展途上国の生活では、いまだに残っている様子を思い浮かべるのは難しいことではない。そういった基本的欲求も無意識に僕を駆り立てる「何か」だ。

 

青春としての中国と「僕」との関係性

そして、「僕」にとって青春=アドレセンスというものも、まさにそういう類のものだ。3人の中国人とのエピソードを通じて、特に「僕」と中国人との距離関係を描くことで、ひとの意識下に横たわる青春の内実を描き出す。

 

一人目:中国人小学校での模擬テスト。机の前に座り、中国人教師の話を聞く様子は、模擬テストならぬ「模擬授業」を受けている。そんな「僕」は一時的・擬似的に(在日)中国人コミュニティに所属してしまっている。そして、教師から突然質問を当てられた「僕」は、恥ずかしさのあまり緊張し、何度も「沈黙」を繰り返す。「僕」がそれにたじろぎ、言葉を発せられなかったのは、それが青春であることを知らなかったからだ。夢というものが、目が覚めてから初めて夢だと気づくのと同じように、人生における青春とはそれが過ぎ去ってから、ようやく気づくものである。青春の真っ只中にいる当時の「僕」は、それが一体何なのか分からず、ただ沈黙するしかない。

 

二人目:大学生になり大人の階段を上りかけた「僕」はそれが青春だということを自覚し始める。それでも、その楽しいひと時が何度でもやり直せることを信じて疑わない。そうやって楽観的な態度のまま油断しているうちに、一度きりのチャンスを逃してしまう。女の子の「ここは私の居るべき場所じゃない」(36)という言葉は、若者たちの「自分探し」の旅の、永遠にたどり着かない終着駅のようだ。同時に青春それ自体が、このとき既に「僕」から遠ざかりかけていることを示している。

 

三人目:28歳になった「僕」は既に青春を忘れている。その関係性が、中国人営業マンを旧友だと思い出すことに時間がかかる描写と重ねられる。ただし、たとえ思い出したとしても、彼と「僕」との関係はあくまでビジネスライクな関係であって、本来の関係ではない。青春とは不可逆的な変化を免れない。

 

そして、30歳を過ぎた「僕」は在りし日には決して戻れないことにようやく気づくことになる。若さ、無垢さとしての青春からどれだけ「僕」は離れてしまったのか、その離れたこの場所=東京は一体どこなのか、自分自身に問うた時、今いる場所のリアリティは崩れ去る。「僕」はこんな場所にいたはずではなかったと、ありし日の場所(中国)を求めてしまう。

 

しかし、繰り返すが、もはやその場所には戻ることはかなわない。そんな「僕」がとる態度は、自分がかつていたはずの中国、理想像としての中国がこの世界のどこかにあるのだと信じ、そこへたどり着ける「中国行きのスロウ・ボート」を待ち続けるだけだ。「絞首台を恐れぬ」「革命家」(51)のように、たとえそれがフィクショナルな理想(イデア)的観念であり、現実に存在しなかったとしても、それゆえ、バッドエンドは初めから運命づけられていたのだとしても、「僕」は死の瞬間までひたむきに求め続けるのである。

 

そういった「僕」の態度は、「誤謬」を「逆説的」(つまりは自覚的)に犯し続けることにほかならない。しかし、それこそ青春のもつパラドキシカルな性質であり、同時に、「僕」の人生を自己存在の根っこのところで規定するのである。

 

ちなみに:3人の中国人は存在したのか 

作品で登場する3人の中国人について、その記憶の不確かさを最もラディカルに解釈すれば、中国人なんて存在しなかったのでは?とも読める。例えば、中国人小学校での模擬テスト。ハルキ文学をよく読む読者にはこの描写に「異界」のモチーフを感じるだろうし、そういった解釈も可能だろう。確かにそれも一つの着眼点だが、その後の場面に注目してほしい。高校3年生のときに同じ会場でテストを受けたと言う女の子の、そんな昔のことなど「思い出せない」(24)という言うセリフは、「僕」とは非常に対照的だ。「僕」も認めるように「彼女の方がまとも」(24)なのである。だとすれば、なぜ記憶の不確かな「僕」だけが覚えているのだろうか。まともな彼女とまともじゃない「僕」の違いは、中国人教師は本当に「模擬授業」を行ったのかという問いにスライドしていく。

 

大学生2年生の春に会った中国人女子学生も同様だ。デートの帰り、彼女の電話番号を記した紙マッチを「間違えて」捨ててしまう。電話番号を一生懸命調べるが、結局分からず仕舞い、彼女ともそれきり会えないで終わる。何故かといえば、そもそもそのような女の子と仲良くなったりデートした記憶は「僕」の妄想か幻だったからかもしれない(妄想癖かそれともホラーか…)。

 

最後、28歳の頃に会った中国人営業マンはもう少し興味深い。というのも、喫茶店で見知らぬ男に話しかけられた「僕」は、はじめ彼が誰だか分からなかった。ようやく途中で高校時代の友人の名前を言うけれども、当の本人は決定的な反応を示してはいない。高校卒業後のことを聞いた際には「とても長くて薄暗くて平凡な話なんだ。きっと聞かないほうがいいよ。」(46)とはぐらかされてしまう。

 

さらに、営業マンとして百科事典を売りつけられるのではないかと警戒した「僕」に、中国人専門に商売していること、そして彼らが「同胞のよしみ」(46)で買ってくれることを話し、僕を安心させる。けれども、結局、「僕」自身も高校時代の「よしみ」でカタログを取り寄せてしまう。彼のセールストークにまんまとハマってしまったという訳だ(洗練されたオレオレ詐欺のようだ)。

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)