ゴンポリズム

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書評:鈴木透『食の実験場 アメリカ ファーストフード帝国のゆくえ』

 本書はアメリカの食文化の入門書だ。
そもそもアメリカの食文化と聞いてどのようなイメージを持つだろうか。マクドナルドやケンタッキー、ポップコーン、フライドチキン、コカ・コーラ...。そんなジャンクフードばかりが目立つアメリカでは、むしろ食文化の乏しさを想像する人も多いだろう。例えば、日本・仏・中華のような、高級料理から大衆料理、家庭料理と続く層の厚さをアメリカ料理から思い浮かべることはあまりない。
 しかしその一方、ファーストフードに代表されるアメリカ発祥の料理が私たちの食文化にとって無視できない存在であるのも事実だ。そんな身近なようで案外知らないアメリカ食文化を歴史的に外観し、ファーストフードの起源と現在をまとめたのが本書だ。

内容

 ここでは第1章と第2章を中心に植民地時代から現代ファストフードの成立までを書き記しておきたい。
 

 植民地時代から建国期のアメリカでは、西洋諸国の料理、インディアン料理、アフリカ黒人料理が2つもしくはそれ以上の組み合わせで混じり合い、独自のアメリカ料理が生まれた。例えば南部クレオール料理のジャンバラヤはインディアン由来のトマト・スパイスと一時期ニューオーリンズを占領した西のパエリアが混ざったものだ。また、フライドチキンはスコットランドの鶏を揚げる調理法とアフリカ黒人のスパイスが組み合わさったものだ。
 

 さらに、アメリカ革命が起きると、植民地ごとに異なった人種組み合わせを維持しながら、ボストン茶会事件における紅茶不買運動のように、13植民地にナショナルな規模で飲み物文化(コーヒー、バーボン、ビール)が生み出されていく。それ以後、ローカル(各植民地=州)、インターナショナル(人種)、ナショナル(連邦)の並立の上に食文化を発展させていく(65-66)。
 

 南北戦争以後、そのような「混血料理」はさらに多様化しながら、産業化による利便性の追求によって新たな食の技術開発と料理の発明が促された。トマトケチャップやベーグル、ハンバーガーなどはクレオールないしエスニックフードでありながらもそういった産業社会における安さ・早さを追求した料理として全国的に発展していく。それは同時に食の標準化・画一化を必然的に推し進めるものであった。
 

 一方産業社会における健康と食の安全性の問題からコカ・コーラケロッグ社のシリアルが台頭していく。それでも飽くことなき利便性の追求によってマクドナルドのようなフランチャイズ方式が出来上がり、アメリカのファーストフード文化が成立する。
 

  本書後半の第3章、第4章では1960・70年代ヒッピーによる食の安全意識が、一方では健康(ヘルシー)意識を喚起し、他方、非西洋のエスニックフードの発展を促したことが述べられる。そして最後、ファーストフードに関連した格差社会や肥満の問題、大規模アグリビジネスに挑戦するCSA(地域支援型農業)が述べられる。

 アメリカの食文化観

 こうしてアメリカのファーストフードの起源と成立を眺めたとき、まず感じるのは食における伝統意識の希薄さだ。それはもちろん白人の移民たちが旧大陸の宗教的・社会的伝統から「脱出」してきたという事情が密接に関わっているからだろうし、まさしくアメリカ建国のインセンティブである。柴田元幸の言葉を借りれば、「現実とはアメリカにおける半分でしかない。あとの半分は、いまだ達成されていない理想」なのだ(『アメリカン・ナルシス』あとがき)。そして、アメリカの食文化を考えるとき、この視点は非常に示唆的であると思う。

 

 例えば、日本の「食文化」と聞くと、なんとなくそこに伝統を感じることが多いのではないだろうか。たいていの場合、日本の食文化は伝統文化の(ときに重要な)一側面とみなされる。しかし、そうした食文化観が前提とするのは、「文化」を過去から現代まで変わらず続く伝統と同一視し、そこに純粋培養されたような不変的な何かを見出そうとする本質主義的発想だ。当然、食に限らずどの国のどの文化もその初めから全く同質であり続けることはない。それにも関わらず不変性、ないしは不変に「見えること」は文化を語るうえで、しばしば重要な判断材料とみなされる。

 

 例えば、日本の握り寿司は江戸時代、おにぎりと同じぐらいのサイズだったと言う。勿論、シャリに空気を含ませるあの握り方もまだ存在せず、別物とさえ言えるかもしれない。一方、今でこそ伝統文化と対照的に語られるファーストフードも、フライドチキンのように植民地時代からの歴史を持つのであれば、伝統的ではないとどうして言えるだろうか。

 

 アメリカ食文化の「非」伝統性は伝統がないという意味では決してない。各々の移民が故郷で蓄えてきた食のノウハウが歴史的に考えても日本より劣っているはずはないからだ。いくつもの人種民族が集まるのなら尚更である。そう考えると、彼らが抱く伝統意識の希薄さとは、裏返せば、食文化の可能性に対する自覚、すなわち、食文化の雑種性や時代変化に対する自覚ではないだろうか。筆者が「食の実験場」と言うとき、そういった意味を考えずにはいられない。

 

アメリカ食文化の担い手

 ただ同時に、そのような食文化観を実生活で支えた社会構造も重要だろう。すなわち、南部では黒人奴隷制を、中西部ではインディアン討伐を行う過程で、一見人種関係の固定や人種の殲滅を意図しながらも、実際は下層階級を中心に人種や文化が多分に混ざり合うこととなった。筆者も指摘するように、白人移民がそれまでの食文化を続けるのに必要な農作物が新大陸には少なかったことや、初期白人移民の多くが商人や投機家であり、農業の知識が乏しく、食事の献立を主に黒人奴隷が決めていたことも食文化の「混血」を促した要因だろう。
 

 そういった社会の底辺(周辺)で起こった人種の横断は背に腹は変えられない経済的な事情ゆえとも言える。彼らにとって伝統とは頑なに守る必然性もなければ、それで腹が膨れる訳でもない。そんな切実な境遇が伝統意識の低さと人種横断的な食文化を促したのではないだろうか。
 

 そのように見ると筆者が「食の実験場」と呼ぶ食文化の土台は、WASPと呼ばれる主流派の白人というより、主流社会の周辺にいた人々によって築き上げられたと言えるだろう。それはあたかも、1950年代南部の下層白人が黒人音楽を取り入れロックンロールを生んだのと同じように。
 

 現代でもアメリカのファーストフード文化を動かしているのは下層階級の人々だ。貧困層が安さゆえにファストフードを選ぶという経済格差と健康格差の問題を孕みながらも、アメリカの食文化を作り上げてきたのが洗練された上流階級や一流シェフではないという事実は、アメリカ文化を考える上でとても重要な視点であると思う。


さいごに

 本書はアメリカ食文化の歴史と現在を、「ファーストフード」をキーワードにコンパクトかつ要領よくまとめた良書だ。しかし、だからこそ腰を据えて読んだ時、不満が全くないわけではない。例えば、筆者が冒頭とあとがきで触れる、食をめぐる「記憶」ないしは「メモリースタディーズ」の問題は結局肩透かしに終わる。現代的なファーストフードが成立して1世紀ほど経つが、アメリカ人がそれについてどう思い、彼らのアイデンティティといかに結びついているのか、「ジャンク」に対比された「ヘルシー」や「エスニック」という構図だけでなく、「ジャンク」それ自体をどう認識し、アメリカの伝統に「記憶」として位置づけるのか、そういう点もやはり気になるところだ。現代に至る歴史を概観するのであれば、そのような問題に若干でも触れるべき段階にファーストフード研究史は入っているだろう。新書という枠を超えた範囲かもしれないし、ある種の無い物ねだりではあるが、続刊があればぜひ知りたい。