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書評:多和田葉子『献灯使』

 今年の全米図書賞(翻訳文学賞)を受賞した話題作『献灯使』を手に入れた。手に入れた、というのはYahoo!ニュースで受賞が報道された翌日、都内丸善ジュンク堂系列の書店で本書がほぼ売り切れになり、すんでのところで丸善某店にて取り置きできたからだ。芥川賞をはじめ国内の文学賞を総ナメにしている多和田葉子だが、一般受けしている作家と言い難いのは、今回の品薄状態からも見て取れる。しかし、そうは言ってもあの全米図書賞受賞である。今後この状況も変わっていくだろう。同じ早稲田文学部出身の村上春樹は、文学的評価が海外から「逆輸入」されたが、多和田葉子の場合は、それと同時に大衆への受容も逆輸入されたように思える。

 

 本書はいわゆる「震災後文学」と呼ばれる小説の一つだ。震災後、このジャンルが流行っていたのは知っていたが、これまでどうも触手が伸びなかった。

 

 そもそも震災後文学とは不思議な響きで、どこか戦後文学を思わせる。しかし、後者が戦争の悲惨さや人類の実存を文学的極限まで高め、一つの政治イデオロギーとして機能するのに比べ、前者はそのような芯のある強さを感じさせない。確かに、何らかのイメージ(日常や常識の瓦解、人知を超えた自然への畏怖、人との絆)を想起させるのには十分だろう。それでも、誤解を恐れず言えば、2万人近くの犠牲者を出した3.11でさえも、先の太平洋戦争と比べれば数字の上では見劣りしてしまうし、国家、社会を根底から変えたとは言い難い。ゆえに震災後文学という言葉を聞いたとき、果たして戦後文学の二番煎じを超える何か別の問題意識を持ち得るのだろうか、と考えずにはいられなかった。

 

 今回、『献灯使』を読んでまず感じたのはそういった震災後文学というジャンルの、つかみどころの無さである。震災直後の「絆」や「トモダチ」のような、散々メディアで流れた紋切り型の問題意識は本書にはない。むしろ、私たちはそういった安っぽいクリシェ(安全・信頼)にこそ、これまで騙されてきたのであって、明確な加害者が不在であるがゆえのやり場のない気持ちが収まるのを、ただ辛抱して待つしかない。そもそも、あの災害は天災ではなく人災ではないのか。そして、歴史に深く刻まれる教訓足り得るのか、それとも、今後も繰り返される大地震の一つに過ぎないのか。そういった答えの出ない問いに、依然苦しみ続ける人がいることを忘れてはいけない。

 

 言い換えれば、震災を経験した私たちは二重の意味で言葉から解放された。それは、言葉の表現可能性さえ超えたカタストロフィを経験したという意味においてだけでなく、言葉の分かりやすさで塗り固められた幻想からも放り出されたということだ。仮に震災後文学の意義が問われるとすれば、震災後に私たちが身を置く、言葉ならざるカオスを文学は表現し得るのか、あるいは、そのような行為によって、あくまで新たな語彙を用いながら、震災以前とは異なった社会を築き得るのか、ということではないかと思う。あくまで「震災『後』文学」は「震災文学」と同義ではないのだ。

 

 震災のような非常時では、言葉そのものが置き去りになる。誰も表現しきれない自然の破壊力、目に見えず、実態の掴めない放射能の恐怖、一般人の理解をはるかに超える専門知識。様々な条件が言葉を裏切り、カオスを生む。しかしだからこそ、そういった「言葉ならざるもの(得体のしれない何か)」を必死に理解しようと、かえって言葉自体に敏感になってしまう。 当時の私たちは、ただひたすらメディアの伝える情報に耳を傾けるしかなかった。限られたニュースから最大限の意味を見出そうと、他のいつにも増して一語一語を噛み締めていた。言葉の「安全神話」に騙されたことをつい最近知ったばかりにも関わらず、まさにその同じ耳で、他人の言葉にしがみついていたのだ。

 

 そういった敏感さの背後には、言葉が社会を作る、というソシュール的な決意も多少はあるかもしれないが、むしろ言霊のような宗教的期待に近いものがあるのだと思う。結局、それらは客観的には言葉遊びに終わってしまうのかもしれない。それでも神様(言霊)の存在をどこか感じることで、今いる環境から一歩引き、物事をよりメタ的に眺める余裕を生み出してくれるだろう。

 

 『献灯使』でも、その破滅的な状況設定に関わらず、クスリと冗談めいた発想(「亜阿片」「御婦裸淫」等々)によって、義郎を取り巻く人々は心穏やかに感じられる。確かに、一方では英語の使用が禁止されて言葉が廃れていくが、他方では当て字を使うことで元の横文字に新たな含みが生まれる。そういった言葉の変化や含みに何か自覚的な意味などないのかもしれない。それでも、その一つひとつの積み重ねが社会をどこか良い方向へ導いてくれるのではないか、という素朴な期待と希望がそこにはあるのだ。

 

 表題にもなっている「献灯使」という言葉も同様だ。「無名」が選ばれたこの仕事はどういう役割を担うのかほとんど分からずに終わる。海外へ密航し、彼の研究データを提供することで日本の発展を願うのだが、その重要性や影響は全く触れられない。それでも中国への遣唐使と重ねながら、「灯を献げる」ことの意味を想像しても面白い。結局、私たちは(作中の人物たちも)社会や倫理がどれほど引っくり返ろうが、言葉なしには生きていけない。

 

アメリカの小説家コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』も放射能で崩壊した世紀末の様子やそこでの親子関係を描いている。しかし、本書とは対照的に、言葉少なげに道なき道を命懸けで歩んでいき、言葉が戯れる余裕などない。どちらがSFとしてリアルかは分からないが、日本的な感性と表現ゆえに、非常に訳しにくい『献灯使』が翻訳文学部門として受賞したことは驚きに値する。

 

 

献灯使 (講談社文庫)

献灯使 (講談社文庫)