ゴンポリズム

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考察:セカイ系としての『STEINS;GATE』(シュタインズ・ゲート)

アニメ『STEINS;GATE』(シュタインズ・ゲート)の感想・考察を書きたい。元々この作品は2009年に発売されたXbox360版ゲームソフトが原作らしく、2011年にアニメ化された。当時、同時期の『魔法少女まどか☆マギカ』とともにスマッシュヒットとなった有名なアニメだ。今年4月からはスピンオフアニメの『STEINS;GATE 0』(シュタインズ・ゲートゼロ)が放映されているらしい。

 

 この作品、どのような話かというと、中二病全開の主人公(岡部倫太郎)が、友人のダルとともに電子レンジと携帯を組み合わせてみたら、偶然タイムマシンのような現象を発見してしまい、中二病的な陰謀に本当に巻き込まれてしまう、という話だ。ヒロインの天才少女(紅莉栖)とともに、この奇妙な現象を解明していく中で、過去にメールが送れること、そしてそれを応用すれば使用者が記憶を過去に送るという形で、過去へタイムリープできることがわかる。

 

 しかし、ダルがSERN(欧州原子核研究機構)にハッキングしたことが原因で、この組織が秘密裏に研究していたタイムマシン開発の成果を知ってしまい、組織から命を狙われる。この時間軸(α世界線)では最終的に幼馴染のまゆりが死んでしまうことがわかると、岡部達が実験のため無邪気に行った過去改変を一つずつ元に戻し、危険なα世界線からもともといたβ世界線を目指す。しかし、そのβ世界線では今度は紅莉栖が死んでしまうことが判明する。最終話近く、β世界線で打ちひしがれていると、この世界線上にいる未来の岡部の助けで鈴羽(ダルの娘)がタイムマシンを使いやって来る。そして、α世界線でもβ世界線でもない第三の選択、シュタインズ・ゲートへの道のりが示され、岡部はこのシュタインズ・ゲートを目指し、最終話で鮮やかな過去改変をやってみせる。

 

 大雑把に要約してみたが、アニメにも関わらず、かなり綿密な設定のハードSFだ。全24話ある物語中、何度も繰り返しタイムリープしながら前半の様々な伏線を回収していく。一度見ただけでは細部まで理解しにくいが、大きな時間軸は3本と少なく、主人公の目的も明確なので、あまり深く考えずに物語を楽しむことができる。

 

 秋葉原が舞台なだけあってこの作品はオタク要素に溢れている。例えば、ダルという人物は、太っていてパソコン好きでネット用語を多用する、という典型的なオタクのイメージを体現している。ある意味、中二病の岡部とともに「痛い」人を特徴的に描いてるわけだが、それはあくまでネタであり、同時にこういった人々の願望も描くことで自己批判を免れてもいる。岡部には幼馴染のまゆりがいつもそばにいるだけでなく、α世界線では女子であるるかやメイド喫茶で働くフェイリスに片思いされ、最後には紅莉栖と結ばれる。オタクのダルも将来結婚できることがわかる。また、中二病の岡部は、α世界線の将来、ディストピアとなった世界でレジスタンスを組織し、ダルも持ち前の知識でタイムマシンを開発する。彼らの趣味嗜好が世界を救うために昇華されるのだ。

 

 それでも主人公の岡部は、α・β世界線からシュタインズ・ゲートに移動し、最後には中二病を卒業する。また、β世界線の記憶を持つ岡部と話したα世界線の登場人物たちは、時間改変前の記憶をぼんやりながら思い出し、この世界線が正しくないことを悟る。有り得たかもしれない世界線への憧れを感じながらも、大切な人を救うためにはトゥルーエンド(正しい世界線)へ向かうことが不可欠であり、あくまで物語は一本道なのだ。

 

 そのように観ると、この物語は19歳の岡部が経験する一夏の出来事として、十代最後の淡い思い出を感じさせる(第22話)。そして、その残酷な経験にも関わらず、いや、むしろ残酷であればあるほど、α・β世界線として行き着く袋小路からの脱出=脱皮は、モラトリアム的十代からの卒業と大人への通過儀礼として、彼の前に立ちはだかる。ここに、「十代最後のセカイ系」と言えるような側面を、物語から見いだせるのではないだろうか。

 

 東浩紀の有名な定義によれば、セカイ系とは、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」だ。そして、この定義はタイムリープ作品と非常に親和性が高い。当たり前だが、タイムリープとは世界改変(危機)の一つであり、あとは「具体的な中間項」に乏しい十代の主人公と、その彼が強く影響を受けるヒロインを登場させれば簡単に出来上がるからだ。

 

 ちなみに、岡部が設定として持つ中二病も、自分が世界の陰謀と大した根拠(具体的な中間項)もなく関係しているという妄想を意味する。前半では陰謀が実際に起きるための、後半ではモラトリアム卒業の指標として、重要な伏線になっている。中二病というネタを上手く利用した、よく考えられた設定である。

 

 そして、先述した、物語が辿る一本道は学校や社会という中間項にコミットするためではなく、あくまで岡部の内面的な自己成長へと繋がっている。彼はα世界線で世界がディストピアになったり、β世界線第三次世界大戦がおこり57億人が犠牲になったりすることを重視しない。あくまでも、まゆりと紅莉栖を救うために世界線を変えるのだ。

 

 だが、岡部がそういった閉塞から脱出するためには、相応の痛みを引き受ける必要があった。というのも、タイムリープを繰り返し、何十回とまゆりの死を目撃するうちに、彼は他人の死に鈍感になっていくからだ。19話では、その世界線における彼女の死の「正確なデッドライン」を知るため、あえて彼女を見殺しにしてみせる。まゆりの最後に立ち会った紅莉栖の震え声を聞きながら、冷静に時計を確認する場面は印象的だ。

 

 そのようなタイムリープの弊害を乗り越えたのが、最終話、シュタインズ・ゲートに移るための過去改変作業だった。岡部は、紅莉栖の死を偽装するために自らナイフで刺され、その血を利用する。自身の体液を彼女にかける行為を新たな世界線=人々を創造するための隠喩表現とみなすのは、決して深読みではないだろう。この儀式によって、タイムリープを繰り返した神のような存在から生身の人間に生まれ変わり、彼は再び生の感覚を取り戻すのである。

 

 このように作品を眺めたとき、ここにセカイ系に対する批判の応答を読み取ることができるのではないだろうか。それは、具体的な中間項なしに人は成長し得るか、という問題である。『エヴァンゲリオン』のように逃げることなく、『ぼくらの』のように殉死に終わることなく、もちろん『涼宮ハルヒ』のように学校に適応することなく、岡部は生きることへの確かな手応えを掴んでみせたのではないだろうか。言い換えれば、SFやオタク世界というサブカルチャーにどっぷり浸かった人々を、彼らの嗜好を最大限に利用し、同時に彼らの自尊心を傷つけることなく、いかに彼らを目覚めさせるか、ということを問うていたように思う。中二病やタイムマシンが好きなら一度存分に体験してみれば良い、そして、君は最後に何を得ただろうか。そういったメッセージが『シュタゲ』からは読み取れるのだ。