ゴンポリズム

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書評:東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』

 先日、オウム真理教幹部の死刑が執行された。あの出来事で僕が感じたのは、死刑がリアルタイムで進んでいく異常なまでのショー的演出だけでなく、複雑な喪失感だった。というのも、1990年前後に生まれた人々にとってオウム真理教という事件は独特のニュアンスを持っているからだ。私たちの世代は、オウム真理教がメディアに(色物扱いながらも)登場し、国選に打って出た90年代前半から、地下鉄サリン事件が起きた95年までをほとんど知らない。しかし、物心つき始めた頃とちょうど時を同じくして教団が解体し、メディア全体にわたる凄まじいバッシングを観てきた。幼心にも一連の事件が日本全体に与えた影響を感じていたように思う。麻原は私たちにとってその初めから死刑囚であって、その彼がついにいなくなる日が来ることなど想像さえできなかった。

 

 しかし、誤解してほしくないのは、その喪失感は彼らへの関心というより、彼らに象徴される時代への関心ゆえである。90年代初めの冷戦の終結バブル崩壊、それによる「大きな物語」の終焉という、現代まで続く政治、経済、社会的な状況の負の側面を一身に象徴したのが彼らであり、1995年の地下鉄サリン事件だった。同年に起きた阪神淡路大震災と合わせて、この年が現代日本で決定的な意味を持つことは多くの人々に指摘されている。ある意味、ゼロ年代テン年代は「1995年」を中心とする様々な問題をどう解決するか、ということを問われた、後始末的な時代だったと思う。

 

 そして、そのような後始末を要求される世代を描いた作品が2011年のアニメ『輪るピングドラム』だろう。オウム真理教地下鉄サリン事件をモデルにして、1995年に地下鉄爆破事件を起こしたテロ組織幹部の子ども達が、その後、親の罪を自分たちの原罪としてどう引き受けるかを描いている。過剰で難解な隠喩的表現が主題を表現する上で成功しているかどうかは分からないが、少女アニメのようなカラフルで可愛らしい色使いと世界観によってコーティングされた物語には、視聴者層への演出という意味以上に、新興宗教に対するタブーの根深さを感じずにはいられない。結局、最終話では世界線を変更することで(生まれ変わることで)問題を解決する展開も、袋小路に陥った現代社会を象徴している。そのような現状を考える上でも、この作品はもっと注目されてしかるべきだと思うが、現代日本の純文学とサブカルチャーとの断絶からして難しいかもしれない。

 

 話が長くなったが、そのような現代のサブカルチャー作品(特にラノベ美少女ゲーム)をどう評価するか、という方法論を提示したのが東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』だ。東らしく沢山の概念装置を前半で提示していき、独自の議論を進めていく。詳しく紹介はしないが、例えば、既存の純文学を創作・批評する視点である「自然主義的リアリズム」に対比され、サブカルチャーの作品の文学性を測る主題的な視点として「まんが・アニメ的リアリズム」と「ゲーム的リアリズム」を提示する(前者は大塚英志の議論の紹介、補強である)。また、読者や作品、作者との市場や読解での関係を「想像力の環境」と呼び、それを踏まえた「環境分析」という構造的な視点も提示する。

 

 前著の『動物化するポストモダン』と合わせて、サブカルチャーの作品を理解する上で重要な地平を切り開いたように思う。しかし、決して疑問がないわけでもない。例えば本の題名にもなっている「ゲーム的リアリズム」という視点は、前半に最も力点が置かれる「まんが・アニメ的リアリズム」の紹介の後、付け足しのような形で提示される。題名にするほどの比重は無く、さらに言えばこの概念は、大塚の議論を踏まえることなく前著の「データベース消費」から容易に導き出されるように思う。また、その方法論を実際に利用した『All You Need Is Kill』の解釈もタイムループものの作品ではどこか聞いたことのある内容で、新たな概念装置を提示するほどの奇抜さはない。

 

 また、「自然主義的リアリズム」という定義も疑問である。東はサブカルチャー作品と既存の純文学作品との対比を強調するあまり、非常に素朴な意味でこの言葉を使うが、純文学や文学批評はもっと多様な文学理論を既に持っている。例えば、近代文学の特徴の一つとされる言葉と現実との「透明」な関係に関して、言葉の難解さを用いて、両者の間に意図的な障害を作り上げたロシア・フォルマリズムを思い出す人は多いだろう。また、そこから発展した、イェール学派を代表とする構造主義的読解もメタ物語性や(行為遂行的読解という意味で)環境分析の視点を持っている(東の言う「環境」は具体的な市場だけでなく、読者や作者、作品との関係そのものを空間的に例える場合も多い)。

 

 東の言う「ポストモダン」という言葉は大きな物語の終焉とそれによる何らかの影響という以上のことを意味しないが、この言葉を使うのであれば(もしく東の学問的背景からすれば)、柄谷行人の議論を援用しサブカルチャーと明治期の文学をそれこそ「タイムスリップ」的に繋げるのではなく、こうした構造主義的批評との結節点を踏まえた方が説得力がある。

 

 本書の批評を「メタ批評」すると、現代思想との学問的繋がりを軽視したり、純文学との断絶(ディスコミュニケーション)を強調する自閉的な態度は、オタクに関する研究に関わらず、オタク的な特徴が既に含まれているように思う。それでもサブカルチャーをより理論的に知るには興味深い本であることは間違いない。