ゴンポリズム

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ある友人の死について

 今日、僕が書くのはとても個人的な内容、ある友人の死に関する話だ。

 

 大学を卒業してこの春で2年が経ち、学生時代の記憶も次第にぼんやりしてきた。最近、高校・大学時代をふと思い出すことがあって、ようやくあの頃を冷静に振り返ることができるようになった。同時に、自分のなかでその時期を改めて総括し、一区切りつけたくもなった。そこで一つの試みとして、村上春樹の『ノルウェイの森』を手に取り、ここ数日読みふけっていた。

 

 しかし、小説を読み進めていくうちに、この6年間、僕の心の中にずっと残っていた言葉にし難いしこりのようなものが次第に大きくなっていき、目を背けていたある記憶と思いを整理せざるを得なくなった。これから綴る内容は、僕に語る資格があるのかという気持ちもあって、言葉にするのをずっと躊躇ってきたことだ。それが、友人の自殺をめぐる話だ。

 

 大学1年の5月、同じ大学に進んだ高校時代の友人から同級生(以下、Kと呼ぶ)が自殺したことを聞いた。Kとは高校2・3年の2年間、同じクラスだった。その頃の僕はろくに高校に行かず、自宅やマックで本を読み耽っていてほとんど留年するところだったので、クラスメイトからもちょっと変わった目で見られていたと思う。

 

 それでも僕が通っていた高校は全国でも名の知れた進学校で、校風もとても自由だった。何よりクラスメイトのほとんどが、自分とは違う種類の人をそっとしておいてくれるだけの大人びた優しさと雰囲気の良さを持っていた。それゆえ、いわゆる「スクールカースト」と呼ばれる類の問題は、ほとんど存在する余地さえ無かったと思う。

 

 そんな優しさと活気と幾分のユーモアに満ちた雰囲気の場所にKがいた。彼は上品そうな整った顔立ちと澄んだ瞳をした好青年だった。例えば、第一印象で女の子の視線を集めることはなくても、間違いなくクラスに一人、二人、隠れたファン(おそらく大人しめの女の子だろう)をもつようなタイプだった。少し真面目すぎるところがあって、時々はっちゃけようとしても最後の一歩が踏み出せない、そしてその気恥ずかしさが見ている方にも伝わってきた。それでも、伝統ある高校の応援団長を務めるほど秘めた熱意を感じさせたし、運動神経も良かった。

 

 フットサルをしていた時の彼の姿は、今でもはっきりと思い出す。ボールを蹴る時の独特のフォーム(両手を身体の横で広げて、重心を高く保ったまま、インサイドに近い形でボールをすくい上げた)は、とてもかっこよかった。そして何より、常に丁寧かつ献身的なプレーを見せてくれて、試合中での自分の役割を本当に良く理解していた。

 

 僕とKとは親友と呼べるような仲では無かったが、時々僕が学校に来れたのも、彼のような生徒がクラスにいたからだ。久しぶりに教室に入ったとき、さりげない無関心さを装いながらも、わずかに微笑んで迎え入れてくれる。そして、ここ最近の授業内容を嫌な顔一つせずに教えてくれる。僕が彼に抜きん出る点は何一つ無かったのに、決して僕の自尊心を傷つけることはしなかった。彼はクラスで人一倍存在感を出す生徒では無かったけれど、むしろそれゆえに、クラスの優しさを体現していた。

 

 それでも、正直に語ると、当時の僕はKに何らかの恩を感じていたわけでは決してなかった。ただ、僕がKに親近感を抱いたのは、彼が時々垣間見せた心の不安定さに、次第に気が付くようになったからだ。その時の僕は、それを上手く表現できなかったが、大人になった今は分かるような気がする。つまり、あるべき姿や感受性、自己認識などが常に心のなかでひしめいていて、その一つひとつを雑に扱いきれない実直さと繊細さが、頭と心でズレをきたしていき、自身の精神を少しずつ傷つけていく、そのような不安定さではないかと思う。

 

 それを十代特有の自意識の問題として片付けるのは容易い。だが、問題は、そういう不安定さを外に発散させることなく、自身の中にひたすら溜め続けていって、自意識を際限なく拡げてしまう人がいるということだ。そして、たとえ十代の問題意識が大人になって和らいだとしても、心の自閉的な癖が変わらなければ、問題は一層深刻さを帯びるに違いない。当時の僕は彼のそういった部分に間違いなく共感していた。何故なら、僕自身も同じ問題を抱えていたからだ。ただ、その本質を理解するだけの表現力と経験を持ち合わせていなかった。

 

 Kは一年間の浪人の後、関東にある国公立大学の医学部に進学し、その一ヶ月後、森の中で発見された。彼が何を引き金に自殺したのかは分からない。さらに言えば、僕がKに共感した点が自殺の背景にあったと言いたいわけでもない。僕が彼と同じ立場なら「勝手に分かった気になるな」と思うだろう。

 

 これまで、彼の死とどう向き合えば良いのか分からなかったのは、僕の中で彼の記憶についての葛藤があったからだと思う。それをあえて説明すればこういうことだ。彼を思い出そうとする。彼を忘れないことが僕に唯一できることだからだ。しかし、自殺した人を思い出すということは、彼を20年生きた人としてでなく、20年目に死んだ人として思い出すということだ。僕の彼の認識は、彼を思い浮かべる瞬間に、彼の生きた重み自体を軽んじてしまいそうになる。ある一方では、彼の最期は彼の魅力に比べれば小さな要素だ、と思いたい気持ちがあり、他方で、なぜ彼は自殺したのか、自殺しなければいけなかったのか、と答えの出ない問いをひたすら繰り返す気持ちがある。そのような混乱に悩みながら、少しずつ彼のことを忘れていってしまう罪悪感がさらに僕を苦しめる。自殺を記憶するとはこういうことだと思う。

 

 僕は間違いなく彼に救われた。僕は高校を卒業できたし、その後の大学生活はそれまでの人生で最も楽しかった。ただ、この6年間、一人で考え事をしていると、時々、知らぬ間にKの事を思い出してきた。僕は彼に後ろめたさを感じているのかもしれない。そして出来ることなら、彼に言いたい。何も心配することはなかったんだと。