ゴンポリズム

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読むこと-観ること-考えること

書評:フォークナー『八月の光』

ウィリアム・フォークナーと言えば、アメリカのみならず20世紀を代表する世界的作家と言われている。フォークナーを読んだことのない英文科の卒業生はいないだろうが、それでも、この作家を愛読する日本人はどれだけいるだろうか。

 

フォークナーとの出会いは大学一年生の冬休みだった。翌年から西洋史専攻になることが決まり、アメリカ史でも学ぼうかとぼんやり考えていた当時、雑貨店っぽさを売りにした某書店で、平積みされていた加島祥造訳『八月の光』を偶然目にした。表紙に描かれた淡く綺麗な平野の絵に目を奪われ(この表紙が気に入って表紙買いした人も多いのではないだろうか)、さらに、裏表紙の「…現代における人間の疎外と孤立を扱った象徴的な作品」という哲学的な宣伝文句に惹かれて衝動買いした。

 

この作品を初めて読んだときの感動は今でもよく覚えている。「これが小説なんだ、これこそ文学なんだ」という言葉を何度も呟いた(後にアメリカ文学の講義で、教授が全く同じ感想を言ったことには驚いたが…)。とは言え、それは当時の自分がその感動を上手く言葉に出来なかったからでもある。フィッツジェラルドヘミングウェイにはない、南部文学の土臭さ、田舎臭さに戸惑ったし、なによりクリスマスとリーナ以外の、脇役と呼ぶには勿体無いほど多くの個性的な登場人物が、象徴的な部分でどう結びつくのか、そして全体として何を言わんとしているのか分からなかった。それでも、夢中でページをめくり、全て読み終えたとき、あの『グレート・ギャツビー』でさえ薄っぺらく感じた。そして、20世紀のアメリカ文学を知ったような気になっていた自分が妙に情けなくなってしまったのだ。もちろん『ギャツビー』がアメリカ人の心を強く揺さぶるような「アメリカらしさ」を持つのは間違いない。それでも、フォークナーの描くアメリカ南部は、それまで抱いていたアメリカ像を根底から覆しただけでなく、他のアメリカ小説にはない質的に違った感触(ほとんどトラウマに近いもの)を自分に残していった。

 

今年の10・11月に岩波文庫から出た諏訪部浩一訳『八月の光』を読んで感じたのは、この物語が、非常にコンパクトで説得力を持った南部社会の縮図になっているということだ。

 

クリスマス、リーナ、ハイタワーの3人は南部の何かしらを象徴している。クリスマスが人種差別だとすれば、リーナは南部淑女、ハイタワーは南北戦争の記憶だろうか。この3つは南部白人精神の柱のようなものだと思うのだが、それらが彼ら(彼女ら)を通じて歪曲的に表現されている。混血の差別主義者、南部淑女たろうとする未婚の女性、神(教会)に見捨てられた牧師。彼らは南部白人社会の腫れモノであり、それは南部的価値観の境界にいることを意味する。そして、自身と社会との折り合いを模索する、言わば社会の異端者である。クリスマスがその境界線を越えようとすれば、一方でリーナは中心を目指し、ハイタワーはそこに留まる。さらに、南部白人観の境界は生と死をも連想させ、クリスマスはそれを踏み越え死んでいく。ここでの死=向こう側は顔のない(作中で名前が与えられない)黒人たちとも結びついている。黒人であることはそれほどの罪深さをもっているのだ。一方のハイタワー牧師は生死を司る番人である。クリスマスに死に場所を提供し、また、リーナからは赤子を引っ張り出してやる。

 

南部の伝統と理想の周辺で異端者がひしめき、いつでも崩壊しそうな脆い社会(実際、この約30年後には「南部の伝統様式(the southern way of life)」は境界の向こう側に住む黒人によって崩された)をすんでのところで支えるのは、なんといっても南部女性の逞しさと優しさだろう。物語冒頭に頭が弱そうな印象をもつリーナでさえ、後半になると全てを包み込む母性的な強さを見せ始め、読者は物語に登場する女性皆が、同じように力強いイメージで描かれていることに気づく(それに比べ、男はなんと弱く愚かなのだろう)。

 

ある意味では、この物語は南部白人社会の見取り図である。この小説を読み、改めて思うのはアメリカ南部の手強さである。南部こそアメリカのエッセンスが詰まっている、そう感じさせる小説だ。

 

最後に、翻訳について、岩波文庫の諏訪部訳(新訳)と新潮文庫加島祥造訳(旧訳)を比べると、全体的に前者の方が読みやすかった。しかし、ところどころ分かりにくい部分もあり、それは原文自体の独特な表現による。今回初めて分かったが、加島訳ではそこらへんを読みやすい形で書き直している。加島訳は今でも古びていない名訳と言えるが、諏訪部浩一先生の信頼できる解説と丁寧な注解、新訳らしい読みやすい日本語を考えると、岩波文庫が今後のスタンダードになっていくのではないか。

八月の光(上) (岩波文庫)

八月の光(上) (岩波文庫)

八月の光(下) (岩波文庫)

八月の光(下) (岩波文庫)

 

八月の光 (新潮文庫)

八月の光 (新潮文庫)