ゴンポリズム

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フォークナー「あの夕陽」

 今回は「あの夕陽」という短編の感想を書きたい。フォークナーの短編のなかでも最も有名な作品の一つだが、長編と比べると感想を書いている日本の読者は少ないようだ(今後もそのような作品をなるべく取り上げようと思う)。前衛的な作品が多い長編と比べると、フォークナーの短編はどれも読みやすい。また、南北戦争以後の南部の問題意識を鋭く描いていて、当時の社会制度や雰囲気を知る上でとても勉強になる。ただ同時に、様々なレベルの読みが可能な重層性も持ち合わせていて、案外手強くもある。手軽に読めながらも、高い文学性と問題意識を感じられるところが彼の短編の魅力だろう。

 

 この作品は、あの『響きと怒り』でお馴染みのコンプソン家の子どもたちがまだ幼い頃の話だ。両親のほかに当時9歳のクウェンティン、7歳のキャディー、5歳のジェイソン、老いた黒人召使のディルシー、黒人洗濯女ナンシーが登場する。

 

 物語は、ディルシーが病気になり、その間代わりにナンシーにコンプソン家の料理を作らせるようになったことから始まる。この時、ナンシーは夫ジージアスとは別の子どもを妊娠していて、それを知ったジージアスは彼女のもとから消えてしまう。しかし、ナンシーは彼が自分に復讐すると信じ、ディルシーが復帰した後も、あの手この手でコンプソン家の人々と一緒にいようとする。

 

 このナンシーという人物は、南部白人が思う黒人女性のステレオタイプを体現している。序盤から、朝起きれない理由を酔っぱらっているからだと思われたり、貞操観念のなさ故に白人男性に体を売り、あげくに夫とは別の子を妊娠したりする。また、拘置所に入れられた際、おそらく妊娠した絶望感から自殺を試みるも看守に見つかり未遂に終わるが、その描写もどこか滑稽な感じが漂う。一方、夫ジーズアスも妻同様、素行が悪かったらしい。途中からコンプソン家の子どもたちは、父親から彼に近づかないように命じられる。そして、その少し後、彼は街から姿を消す。

 

 この作品は、登場人物の設定やあらすじ自体は全く複雑ではないのに、読み終えた時、腑に落ちない違和感のようなものが最後まで残ってしまう。それは、物語を通して読者の分からないことがあまりに多いからだ。なぜナンシーは拘置所に入ったのか、妊娠した子どもは誰の子なのか、ジージアスはなぜコンプソン家に近づいてはいけないと言われたのか、なぜナンシーのもとを去ったのか、なぜ警察から逃げているのか、ナンシーの言うように本当に街に隠れていて彼女を殺そうとしているのか、そして、この事件の結末はどうなったのか...。

 

 これらの謎が最後まで分からずに終わるということを、どう考えればいいだろうか。普通、小説で何らかの謎が残るとき、読者には各々の想像力によってその空白部分を埋めることが期待される。そして、そこに物語の可能性という作品的拡がりが生まれることになる。特に短編の場合、写真を撮るかのように事件や日常の一場面が切り取られることが多く、大局的には場面の前後は分からないわけで、何らかの謎は必ず残るといって良い。

 

 しかし、「あの夕陽」の場合、冒頭でわざわざ15年後のジェファソンの街を描き、クウェンティンが幼い頃を思い出すという構造を取る。だからこそ、結末を知るはずのクウェンティンがそれを語らないまま、多くの謎が放置されること、特にナンシーの恐怖が宙吊りで終わることに、読者は違和感を覚えるのだ。それは、ホラー小説によくあるような、謎が謎のまま終わることで不気味さを演出する物語的な仕掛けとは少し違うように思う。

 

 15年後のクウェンティンがあえて物語の確信部分を語らないのは、彼にとって15年経った今も、その記憶が意味することを理解できないからである。言い換えれば、一見ナンシーの恐怖を中心に描いているこの物語の本質は、9歳のクウェンティンという白人少年の視点から大人の黒人女性を描き、前者が後者をいかに理解できないかということを、を暴くことなのだ。クウェンティン/ナンシーという二項対立は、子供/大人、白人/黒人、男/女、という3つの要素に還元でき、それゆえ決してお互いに分かり合えない関係なのである。クウェンティンにとって、ナンシーの恐怖は三重に理解できない。そして、15年後、大人になった彼にとっても黒人女性の気持ちはやはり分からないままだ。そして同様に、多くの謎が放置されて終わるのは、白人にとって黒人世界が本質的に理解できない存在であることを示しているからだ。

 

 ただ、白人と黒人の関係は均等に断絶しているわけではない。白人は黒人をあくまで意識的には理解していると思っている。だから、例えばナンシーを「買った」ストーヴァル氏は、ナンシーがその事実を暴露したとき、彼女を殴り倒したのだ。そうすれば彼女は言うことを聞くと思っているのである。白人は一方的にカラーラインを越え、都合良く黒人を知った気になる。両者の分離は絶対的に見えて、白人から黒人へと向かう理不尽なベクトルが存在するのである。コンプソン家の台所の、あくまで「ストーブのうしろ」(94)に座っているジージアスは言う。

 

白人はおれんところの台所をうろついたってかまわねえんだよ。白人は勝手におれの家にはいってきても、おれはそいつをとめることもできねえんだ。(95)

  

 白人と違い、黒人は彼らのそういった無自覚な態度や、自らの置かれた立場をよく理解している。ジージアスがナンシーを襲う(とナンシーが思う)のは、ジム・クロウ制のもとでは、黒人が白人に理不尽な行いの復讐をすることは許されないからだ。ジージアスはそのやるせない思いをナンシーに向けるしかないのである。そして、そういった事情を理解する彼女の孤独な恐怖は、それ自体が黒人的なのものなのだ。

 

 黒人男性と違い、家政婦として白人家庭に奉仕する黒人女性は物理的には白人と近い距離を保つ。ときに妊娠までさせられる人間関係にも関わらず、しかし、ナンシーの苦しみはコンプソン家の人々に理解されることは決してない。そして、最後には藁にもすがる思いでクウェンティンら幼い子どもに助けを求めることになる。

 

 こういった文脈のもとでは、5歳のジェイソンがしばしば口にする「僕は黒人じゃないよ」という無垢な台詞はあまりに絶望的である。性別や年齢よりも人種こそが南部の人々を規定する基本的なラインであることを、あまりにも残酷に表現しているように思える。これこそがアメリカ南部で生きるということなのだろう。

 

フォークナー短編集 (新潮文庫)

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