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ゴンポリズム

読むこと、観ること、考えること。

「あの夕陽」『フォークナー短編集』(フォークナー)

今回は「あの夕陽」という短編の感想を書きたい。この作品で登場するのは、あの『響きと怒り』でお馴染みのコンプソン家で、時系列としてはその前、子どもたちがまだ幼い頃の話である。それゆえ、短編の中でも知名度は高い。それにしても『フォークナー短編集』に収録されている短編は、どれも非常に読み応えがある。本を開くたびに熟読を促す完成度の高さは数ある短編集の中でも頭一つ抜いている。

「あの夕陽」は、黒人の洗濯女ナンシーが夫ジーズアスの殺意に震える様子を、コンプソン家長男で、当時9歳のクウェンティンの眼から描く話だ。このナンシーという女は貞操観念がなく、夫がいるにも関わらず日頃から白人男性に体を売り、あげくに夫とは別の子を妊娠してしまう。しかもそれを隠そうとする様子もない。

一方、夫ジーズアスも妻同様、素行が悪かったらしい。コンプソン家の子どもたちは、父親から彼に近づかないように命じられていた。父はその理由を子どもたちに教えない。その少し後、彼は街から姿を消すが、大人たちの会話とナンシーの妊娠を合わせて考えれば、おそらく彼女を孕ました白人男を剃刀で切りつけ、警察に追われたのだろう。しかし、彼はナンシーを恨みながら街のどこかに隠れ、ナンシーの家に脅迫物を置いたり、彼女が泊まるコンプソン邸に忍び込んだりして、その存在を暗示させる。

結局、ジーズアスは彼女に復讐したのだろうか。それとも彼の気配自体、ナンシーの「根拠のない」妄想だったのだろうか。ここで気になるのは、9歳のクウェンティンが語り手となるエピソードは、その時系列がジーズアスに近づいて良いかどうかを基準に整理されている点だ。物語冒頭、「ジーズアスとかかわりあってはいけないと父が私たちにきつく命じていたからである」(91-92)という一文とともに、ナンシーを家に呼びつけに行ったことを回想する。そして、ナンシーが拘置所で自殺未遂するエピソードの後(ここは9歳クウェンティンが直接見たものではない)、クウェンティンがナンシーの妊娠を初めて知った記憶が描かれる。このときも「まだ父がジーズアスにたいして、私たちの家に近よらないように命じる前の話だ」(94)という文を挟む。そして、「(前略)ジーズアスがいなくなっているのに気がついた、とナンシーは私たちに話してくれたのだった」(97)に続き、以後、最後まで時系列に沿った形となる。

この点に注目すると、クウェンティンが15年前を回想するという物語の骨格は、なによりもジーズアスの行動にあり、影の主役として一定の存在感を示している。別の言い方をすれば、一見ナンシーの恐怖を思い出すようにみえて、実は、この物語はジーズアスに関するものなのだ。実際に会ったことがほとんどないがゆえに、その男の記憶をいくつもあるナンシーとの思い出の一部の中に見出さざるを得ないのである。そして、15年後になっても鮮明に思い出すのは(語られなければならないのは)、彼がその後、何か大きな事件をしでかしたからにほかならない。

であるならば、ナンシーの恐怖は突如として現実味をおびるどころか、絶望感さえ呼び起こす。後に殺されるだろうナンシーの事件は、白人の黒人に対する無理解と関心の薄さ全体を象徴していると言えるが、5歳ジェイソンの「僕は黒人じゃないよ」という口癖が無垢ゆえにより一層響くのである。物語の最後、ジェイソンを肩車しながら仲良く帰っていく白人家族と取り残され不貞操の処刑を待つ黒人女との対比は、何も出来ない読者をも絶望へと導く。生まれた時からこのような待遇を味わう心配のない、絶対的な境界としての人種、それこそジム・クロウのアメリカ南部に生きるということだったのかもしれない。