ゴンポリズム

読むこと、観ること、考えること。

「納屋は燃える」『フォークナー短編集』(フォークナー)

10月19日、岩波文庫からウィリアム・フォークナー『八月の光』の新訳が出るとのことだ。これまで、この作品の邦訳は新潮文庫加島祥造訳であった。訳もそれほど悪くはなかったし、何より一冊になっていたのは読みやすく嬉しかった(岩波の新訳は上・下二冊)。

 

ここ10年、岩波書店はフォークナーの新訳を世に出し続けている。2007年の『響きと怒り』、2011年の『アブサロム!アブサロム!』に引き続き、今回の出版となる。先の二作品は読みやすく、また注釈も丁寧だったので、今回も期待が大きい。改めて、岩波版の訳者とその丁寧な注釈群を眺めると、フォークナーの難解さがよく分かる。訳者はどなたもフォークナーを専門とする研究者であり、職業翻訳家が簡単に訳せられるものでもないのだろう。少なくともこれまでの「研究成果」をなんとか盛り込み、作品が持つポテンシャルを一般読者に示そうと奮闘したのが分かるテキストだ。

 

せっかくなので、そのフォークナーを選んでみた。作品は、新潮文庫『フォークナー短編集』から「納屋は燃える」という有名な作品である。

 

物語は、プア・ホワイトで放火癖の父を持つ10歳の少年サーティーが、屈折した父との経験を通して大人への成長を垣間見せる、というものだ。サーティーの父は、豚の脱走に端を発する放火容疑で土地を追われ、新しい場所でも雇い主の家の絨毯を汚し、弁償させられそうになると、また相手宅の納屋を放火する。この家族はこれまで、そのようなことを繰り返しながら、12回も引越ししてきたらしい。

 

訳者解説には、この少年が「自分の受け継いだ血とモラルのあいだにはさまって、血みどろの苦悩を舐める」とあるが、この解釈は果たして適切だろうか。一般的にこの作品の主題は、「血の忠誠か、法の忠誠か」とか、「子どもは、たとえ親が教えなくても正義を学び取る」とかだろう。しかし、個人的にはそのようなサーティー像はどうも納得がいかないのである。なぜなら、この家庭に漂うのは、父親の権力と暴力、それによる「恐怖と悲嘆」(269)である。妻も夫に逆らえない家庭環境で躾(犯罪の手伝い)をされ、19世紀末の南部プア・ホワイトゆえに学校教育とも縁がない。そのような10歳の子どもに、現代的な「モラル」がどれだけ育まれるのだろか。むしろ、犯罪に躊躇いなく協力するサーティーの長男のような人物こそ、物語として必然的ではないか。

 

そのような前提で作品を読むと、「敵」(246)/「味方」(255)という、もっと素朴な人間関係がサーティーの周りで浮かび上がる。不安定な環境にいる子どもが、自らの保護を得るための防衛手段であり、また、サートリス家の一人として、「じぶんの血縁のものに忠実にする」(255)という意味に対する彼なりの理解である。

 

サーティーが父に教えられるのは、一族の血の宿命に従い「暴虐、蛮行、激情」(274)を尽くしながら、一方では黒人を蔑み、また一方では中流白人に妬む生き方だ。南北戦争時代、「古いヨーロッパ的な意味での一兵卒」(289)として、南北両軍に与しなかった父はまさにそれを体現する。しかし、そのような生き方は突き詰めると破滅的である。度重なる社会的疎外感(引越し、道端の罵り)は、次第にサーティーを絶望へと追いやっていく。

 

そのような中で出会ったド・スペイン邸は、彼が悲嘆に覆われたこの生活から逃れ、安らで安定した生活を送ること(「平和と歓喜」(258))の象徴である。

 

ここの人はお父つぁんからやられることはないだろう。このような平和と威厳の一部分によって生活している人たちには、お父つぁんの手も届かないんだ。お父つぁんはこの人たちにとっては、ブンブンうなる黄蜂ぐらいのものでしかないんだ。ちくりと刺してちょっとのあいだ痛むが、それだけのものだ、この平和と威厳の神秘的な力は、この家に属する納屋や厩や穀物倉を、お父つぁんがたくらむかもしれないようなちっぽけな火では燃えないようにしてしまうのだ(258)

つまり、この建物は家族の破滅性とは全く離れたところに位置する、彼にとっての最後の希望、憧れだ。これこそが社会・経済的に取り残された家族の暮らしを救い出せる唯一の希望なのである。「絨毯事件」のクライマックスで、サーティーが放火の準備に協力しながらも、同時に少佐のもとへ知らせに走るのは、決して良心とかモラルとかに動かされているのではない。この文脈で考えれば、むしろ彼にとっての希望の象徴を守りたいのだ。憧れである平和を彼自身が守るという決心が彼を邸宅へ導いたのだ。

 

この行いは必然的に父への反逆である。しかし、そうやって彼は屈折した親子関係を乗り越え、大人への一歩を踏み出すことになる。敵/味方という関係がここにきて否定される。このように読むと、絶望と平和とのあいだで揺れ動いた少年の成長の物語として読めるのではないか。