ゴンポリズム

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考察:アニメ『僕だけがいない街』

 最近、無性にアニメやドラマを観たくなる。そこで、何か面白そうなものを探していたところ、『僕だけがいない街』(2016年)というアニメがなかなか面白かったので感想を書きたい。

 

 このアニメは「リバイバル」というタイムループ能力を持つ主人公(悟)が、小学時代の連続児童誘拐事件を解決するため、18年前に戻るというストーリーだ。もともと原作漫画があり、アニメとは最終回の結末や伏線の張り方が少し異なるらしい。今回はアニメのみを観た感想になる。

 

 率直な感想を言えば、いろいろな考察ができる奥の深いアニメだった。いわゆる「タイムループもの」と呼ばれるSFストーリーである一方、80年代当時の児童虐待や冤罪被害が絡んだシリアスな展開もあり、虚構性と社会性(現実感)のバランスがよく取れていた。しかし、何より目を引いたのは、真犯人が陥る状況と心理がトリッキーな構成(入れ子構造)になっている点だ。

 

 

《八代先生と「蜘蛛の糸」》

 悟の小学時代の担任でもあり、また、当時3件の児童誘拐殺人事件を起こした八代は、屈折した快楽を持っていた。小学時代、クラスメイトからもらった8匹のハムスターを溺死させようとした際、そのうちの1匹が他の死骸の上に乗りながら生き延びているのを目撃する。その様子が、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に登場する主人公カンダタを連想させた。極悪非道の限りを尽くしたカンダタが、生前たった一度だけ蜘蛛の命を救ったという理由で、お釈迦様から蜘蛛の糸を垂らしてもらい、極楽へ昇るチャンスを得るという、あのお話である。八代はハムスターの一件以来、特定の人の頭の上に、この「蜘蛛の糸」を見出すようになる。

 

 そして、彼は「お釈迦様」として「カンダタ」である児童の生を弄び(糸を垂らし)、最後に殺害する(糸を切る)。作中では加代の例が典型的だろう。母親から虐待を受け、希望を失った加代を救うべく児童相談所に何度も掛け合ったり、悟と真摯に相談したりする描写は、一見、誠実で信頼できる教員像を第三者に与える。これは要するにミスリードなのだが、後に判明する犯人像とのギャップは、演技というよりも彼の二面性を表している。つまり、他人に一筋の希望を与え、生きることへの喜びと期待を悪戯に感じさせながらも結局は無慈悲に裏切られる絶望感を、標的の児童に与えたいのかもしれない。

 

 しかし、「お釈迦様」として振る舞う八代も、大局的には間違いなく「カンダタ」であった。彼は加代たちの殺害を阻止した悟を殺そうとし、失敗する。しかし、悟が植物状態になると、それまでの殺人衝動は彼から消え、悟の殺害を渋るようになる。そして、極悪の限りを尽くしながらも、たった一度の善行をした(悟を見逃した)「カンダタ」として、八代に「糸」が垂れ始める(その糸は、悟が目覚めた後、彼を屋上から落としたことで切れる)。

 

 このように、悟が八代に糸を垂らしながらも、八代自身も加代達に糸を垂らすという、入れ子構造が見られるのである。しかし、もちろん被害児童らは「極悪人」ではない。では、なぜ彼女たちから糸が垂れるのか。これには様々な解釈があるだろう。個人的には、ときとして這い上がることの難しい絶望的な状況に身を置きながらも、どんな時でも彼女たちは(糸一本分の)わずかな希望を忘れないからではないだろうか。その意味で、各々、苦しみを抱えつつ、挫けず順応し続ける子どもたちの強さを感じたいところだ。

 

 

僕だけがいない街

 この題名は、そのマイナスな響きとは反対に非常にヒロイックな意味合いを持つ。悟の植物状態をきっかけに、八代の犯行は身を潜めるようになった。悟も認めるように、彼がいなくなるのはある種の自己犠牲であり、複数の人たちの命を救ったという点で大きな役割を果たした。文字通り、彼は真のヒーローに「生まれ変わった」と言える。

 

 

 正直、物語の中盤には、真犯人が八代先生なのが予想できてしまうのだが、いろいろな考察が可能なストーリーなのでオススメしとこう。

 

 

#1 走馬灯

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