ゴンポリズム

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読むこと-観ること-考えること

書評:斎藤眞『アメリカとは何か』

今回、取り上げるのはアメリカ革命史研究の大家、斎藤眞(1921-2008年)の著書である。戦後日本のアメリカ史研究を牽引した彼の名前は、アメリカ史をかじった読者なら一度は聞いたことがあるだろう。この本は、前々から多くの先生が薦めていてマークしていたのだが、運良くブックオフで買うことが出来た。

 

斎藤眞の著書でごんぽりが最初に読んだのは『アメリカ政治外交史 第二版』(東京大学出版会)だった。学生用テキストとして版を重ねていたのだが、確かに所どころ記述の古さは否めなかった。それでも各時代の要点を的確に捌きながら、著者の立場を要領よく盛り込んだ叙述は、通史にも関わらず最後まで面白く読めた印象がある。脚注にも重要というか、痒いところに手が届く説明が散りばめられ、卒論執筆時に意外と役立った。「斎藤史学」と呼んでも憚られない内容だろう。

 

さて、この『アメリカとは何か』は、9つの小論文ないしエッセイと1つの講演録からなり、内容も独立革命から「明白な運命」、反主知主義ニクソン大統領の辞任まで多義にわたる。どれも研究論文というより、実証性を残しながらも、ときにそれに囚われることなく、自由に論を展開したエッセイばかりである。読みやすく面白い。なにより各章に通底するのは、個別の事象を長い「アメリカ史の文脈」に位置づける姿勢である。章によっては少し大げさな気もしなくはなかったが、逆にアメリカの理念(筆者の言う「自由と統合」)を個々の例を引き合いに出しながら論じたという見方もできる。

 

筆者の専門と論文の時代性を鑑みれば、面白いのは建国・膨張期を論じた前半部分である。巧みな論の展開はしばしば読み手の予想の裏をかきながら、最後は上手く収束させていく。しかし、何か立派な結論を提示するのではなく、適度な議論のほつれを残すことで読み手にさらなる興味と思考を促す。   後半の章は、「アメリカ史の文脈」に位置付けるという方法論は分かるものの、少し大雑把で大袈裟な感じがあるかもしれない。しかし、歴史に学び、歴史を使う事こそ我々が歴史書を読む理由だとすれば、このように大局的見地に立ちながら、事象一つひとつの「歴史的意味」を大胆に提示するのは、歴史学本来の役割ではないだろうか。

 

そう考えながらこの本を読み返した時、まさにこの本に、いや斎藤史学に魅了された自分がいた。『政治外交史』を読んだ時に感じた、あの知的興奮を思い出さずにはいられなかった。

アメリカとは何か (平凡社ライブラリー (89))

アメリカとは何か (平凡社ライブラリー (89))

 

書評:福井憲彦『近代ヨーロッパ史 世界を変えた19世紀』

今回、取り上げるのは福井憲彦著『近代ヨーロッパ史 世界を変えた19世紀』である。もともと放送大学用のテキストらしく、近代ヨーロッパの歴史が初学者にも分かりやすく書かれている。高校世界史で学ぶ知識を少し詳しくした程度で、教科書的な記述も目立つし、人によっては物足りないかもしれない。ただ、近代ヨーロッパ史の特徴をサクッと振り返るには都合の良い本だと思う。

 

 

副題には「19世紀」と書かれているが、この本の射程は16世紀の大航海時代までさかのぼる。約400年、多くの事件が続いたこの時代を、一つひとつ掘り下げていくのは容易かもしれないが、ではそれらを大局的に振り返ろうとすると案外言葉に詰まってしまう。その意味で、フランス史研究で有名な著者が250ページで振り返ってくれる講義は、手軽で魅力的である。

 

 

レコンキスタ後のポルトガルに始まった大航海時代は、スペイン、オランダ、イギリスと続き、現代的なグローバルな世界を形作いっていく。この時代、ヨーロッパ文明を世界に広げていきながら、大西洋革命、産業革命を経験し政治・経済両面で革新的な発展が見られた。もちろん、その一方でアジア・アフリカに対する暴力的支配や、ヨーロッパ内部での格差、そしてなによりもナショナリズム帝国主義へと変容していく結果起こった世界大戦など、歴史の負の部分も見逃すことはできない。著者はそのような「近代ヨーロッパの光と陰」をしっかりと捉えることを強調する。

 

 

それが強調されるのも、著者も言うように、近代ヨーロッパは長い人類史の中でも、中世・近世からの「革命的」変化を遂げ、その歴史的特徴(成果)が多くの点で現代に引き継がれているからである。それは社会制度の面だけでなく、個々人の価値観や自意識にまで深く根を下ろしている。どれほど過去に無自覚であっても、私たちが良くも悪くも歴史的存在であることは否定できない。私たちは、私たち自身を深く知るために歴史を学ばなければならないのだと思う。

近代ヨーロッパ史 (ちくま学芸文庫)

近代ヨーロッパ史 (ちくま学芸文庫)

書評:フォークナー「あの夕陽」

 今回は「あの夕陽」という短編の感想を書きたい。フォークナーの短編のなかでも最も有名な作品の一つだが、長編と比べると感想を書いている日本の読者は少ないようだ(今後もそのような作品をなるべく取り上げようと思う)。前衛的な作品が多い長編と比べると、フォークナーの短編はどれも読みやすい。また、南北戦争以後の南部の問題意識を鋭く描いていて、当時の社会制度や雰囲気を知る上でとても勉強になる。ただ同時に、様々なレベルの読みが可能な重層性も持ち合わせていて、案外手強くもある。手軽に読めながらも、高い文学性と問題意識を感じられるところが彼の短編の魅力だろう。

あらすじ

 この作品は、あの『響きと怒り』でお馴染みのコンプソン家の子どもたちがまだ幼い頃の話だ。両親のほかに当時9歳のクウェンティン、7歳のキャディー、5歳のジェイソン、老いた黒人召使のディルシー、黒人洗濯女ナンシーが登場する。

 

 物語は、ディルシーが病気になり、その間代わりにナンシーにコンプソン家の料理を作らせるようになったことから始まる。この時、ナンシーは夫ジージアスとは別の子どもを妊娠していて、それを知ったジージアスは彼女のもとから消えてしまう。しかし、ナンシーは彼が自分に復讐すると信じ、ディルシーが復帰した後も、あの手この手でコンプソン家の人々と一緒にいようとする。

 

 このナンシーという人物は、南部白人が思う黒人女性のステレオタイプを体現している。序盤から、朝起きれない理由を酔っぱらっているからだと思われたり、貞操観念のなさ故に白人男性に体を売り、あげくに夫とは別の子を妊娠したりする。また、拘置所に入れられた際、おそらく妊娠した絶望感から自殺を試みるも看守に見つかり未遂に終わるが、その描写もどこか滑稽な感じが漂う。一方、夫ジーズアスも妻同様、素行が悪かったらしい。途中からコンプソン家の子どもたちは、父親から彼に近づかないように命じられる。そして、その少し後、彼は街から姿を消す。

謎の多い物語

 この作品は、登場人物の設定やあらすじ自体は全く複雑ではないのに、読み終えた時、腑に落ちない違和感のようなものが最後まで残ってしまう。それは、物語を通して読者の分からないことがあまりに多いからだ。なぜナンシーは拘置所に入ったのか、妊娠した子どもは誰の子なのか、ジージアスはなぜコンプソン家に近づいてはいけないと言われたのか、なぜナンシーのもとを去ったのか、なぜ警察から逃げているのか、ナンシーの言うように本当に街に隠れていて彼女を殺そうとしているのか、そして、この事件の結末はどうなったのか...。

 

 これらの謎が最後まで分からずに終わるということを、どう考えればいいだろうか。普通、小説で何らかの謎が残るとき、読者には各々の想像力によってその空白部分を埋めることが期待される。そして、そこに物語の可能性という作品的拡がりが生まれることになる。特に短編の場合、写真を撮るかのように事件や日常の一場面が切り取られることが多く、大局的には場面の前後は分からないわけで、何らかの謎は必ず残るといって良い。

 

 しかし、「あの夕陽」の場合、冒頭でわざわざ15年後のジェファソンの街を描き、クウェンティンが幼い頃を思い出すという構造を取る。だからこそ、結末を知るはずのクウェンティンがそれを語らないまま、多くの謎が放置されること、特にナンシーの恐怖が宙吊りで終わることに、読者は違和感を覚えるのだ。それは、ホラー小説によくあるような、謎が謎のまま終わることで不気味さを演出する物語的な仕掛けとは少し違うように思う。

白人から見る黒人という存在

 15年後のクウェンティンがあえて物語の確信部分を語らないのは、彼にとって15年経った今も、その記憶が意味することを理解できないからである。言い換えれば、一見ナンシーの恐怖を中心に描いているこの物語の本質は、9歳のクウェンティンという白人少年の視点から大人の黒人女性を描き、前者が後者をいかに理解できないかということを、を暴くことなのだ。クウェンティン/ナンシーという二項対立は、子供/大人、白人/黒人、男/女、という3つの要素に還元でき、それゆえ決してお互いに分かり合えない関係なのである。クウェンティンにとって、ナンシーの恐怖は三重に理解できない。そして、15年後、大人になった彼にとっても黒人女性の気持ちはやはり分からないままだ。そして同様に、多くの謎が放置されて終わるのは、白人にとって黒人世界が本質的に理解できない存在であることを示しているからだ。

 

 ただ、白人と黒人の関係は均等に断絶しているわけではない。白人は黒人をあくまで意識的には理解していると思っている。だから、例えばナンシーを「買った」ストーヴァル氏は、ナンシーがその事実を暴露したとき、彼女を殴り倒したのだ。そうすれば彼女は言うことを聞くと思っているのである。白人は一方的にカラーラインを越え、都合良く黒人を知った気になる。両者の分離は絶対的に見えて、白人から黒人へと向かう理不尽なベクトルが存在するのである。コンプソン家の台所の、あくまで「ストーブのうしろ」(94)に座っているジージアスは言う。

 

白人はおれんところの台所をうろついたってかまわねえんだよ。白人は勝手におれの家にはいってきても、おれはそいつをとめることもできねえんだ。(95)

  

 白人と違い、黒人は彼らのそういった無自覚な態度や、自らの置かれた立場をよく理解している。ジージアスがナンシーを襲う(とナンシーが思う)のは、ジム・クロウ制のもとでは、黒人が白人に理不尽な行いの復讐をすることは許されないからだ。ジージアスはそのやるせない思いをナンシーに向けるしかないのである。そして、そういった事情を理解する彼女の孤独な恐怖は、それ自体が黒人的なのものなのだ。

 

 黒人男性と違い、家政婦として白人家庭に奉仕する黒人女性は物理的には白人と近い距離を保つ。ときに妊娠までさせられる人間関係にも関わらず、しかし、ナンシーの苦しみはコンプソン家の人々に理解されることは決してない。そして、最後には藁にもすがる思いでクウェンティンら幼い子どもに助けを求めることになる。

 

 こういった文脈のもとでは、5歳のジェイソンがしばしば口にする「僕は黒人じゃないよ」という無垢な台詞はあまりに絶望的である。性別や年齢よりも人種こそが南部の人々を規定する基本的なラインであることを、あまりにも残酷に表現しているように思える。これこそがアメリカ南部で生きるということなのだろう。

 

フォークナー短編集 (新潮文庫)

フォークナー短編集 (新潮文庫)

 

 

書評:フォークナー「納屋は燃える」

10月19日、岩波文庫からウィリアム・フォークナー八月の光』の新訳が出るとのことだ。これまで、この作品の邦訳は新潮文庫加島祥造訳であった。訳もそれほど悪くはなかったし、何より一冊になっていたのは読みやすく嬉しかった(岩波の新訳は上・下二冊)。

 

ここ10年、岩波書店はフォークナーの新訳を世に出し続けている。2007年の『響きと怒り』、2011年の『アブサロム!アブサロム!』に引き続き、今回の出版となる。先の二作品は読みやすく、また注釈も丁寧だったので、今回も期待が大きい。改めて、岩波版の訳者とその丁寧な注釈群を眺めると、フォークナーの難解さがよく分かる。訳者はどなたもフォークナーを専門とする研究者であり、職業翻訳家が簡単に訳せられるものでもないのだろう。少なくともこれまでの「研究成果」をなんとか盛り込み、作品が持つポテンシャルを一般読者に示そうと奮闘したのが分かるテキストだ。

 

せっかくなので、そのフォークナーを選んでみた。作品は、新潮文庫『フォークナー短編集』から「納屋は燃える」という有名な作品である。

 

物語は、プア・ホワイトで放火癖の父を持つ10歳の少年サーティーが、屈折した父との経験を通して大人への成長を垣間見せる、というものだ。サーティーの父は、豚の脱走に端を発する放火容疑で土地を追われ、新しい場所でも雇い主の家の絨毯を汚し、弁償させられそうになると、また相手宅の納屋を放火する。この家族はこれまで、そのようなことを繰り返しながら、12回も引越ししてきたらしい。

 

訳者解説には、この少年が「自分の受け継いだ血とモラルのあいだにはさまって、血みどろの苦悩を舐める」とあるが、この解釈は果たして適切だろうか。一般的にこの作品の主題は、「血の忠誠か、法の忠誠か」とか、「子どもは、たとえ親が教えなくても正義を学び取る」とかだろう。しかし、個人的にはそのようなサーティー像はどうも納得がいかないのである。なぜなら、この家庭に漂うのは、父親の権力と暴力、それによる「恐怖と悲嘆」(269)である。妻も夫に逆らえない家庭環境で躾(犯罪の手伝い)をされ、19世紀末の南部プア・ホワイトゆえに学校教育とも縁がない。そのような10歳の子どもに、現代的な「モラル」がどれだけ育まれるのだろか。むしろ、犯罪に躊躇いなく協力するサーティーの長男のような人物こそ、物語として必然的ではないか。

 

そのような前提で作品を読むと、「敵」(246)/「味方」(255)という、もっと素朴な人間関係がサーティーの周りで浮かび上がる。不安定な環境にいる子どもが、自らの保護を得るための防衛手段であり、また、サートリス家の一人として、「じぶんの血縁のものに忠実にする」(255)という意味に対する彼なりの理解である。

 

サーティーが父に教えられるのは、一族の血の宿命に従い「暴虐、蛮行、激情」(274)を尽くしながら、一方では黒人を蔑み、また一方では中流白人に妬む生き方だ。南北戦争時代、「古いヨーロッパ的な意味での一兵卒」(289)として、南北両軍に与しなかった父はまさにそれを体現する。しかし、そのような生き方は突き詰めると破滅的である。度重なる社会的疎外感(引越し、道端の罵り)は、次第にサーティーを絶望へと追いやっていく。

 

そのような中で出会ったド・スペイン邸は、彼が悲嘆に覆われたこの生活から逃れ、安らで安定した生活を送ること(「平和と歓喜」(258))の象徴である。

 

ここの人はお父つぁんからやられることはないだろう。このような平和と威厳の一部分によって生活している人たちには、お父つぁんの手も届かないんだ。お父つぁんはこの人たちにとっては、ブンブンうなる黄蜂ぐらいのものでしかないんだ。ちくりと刺してちょっとのあいだ痛むが、それだけのものだ、この平和と威厳の神秘的な力は、この家に属する納屋や厩や穀物倉を、お父つぁんがたくらむかもしれないようなちっぽけな火では燃えないようにしてしまうのだ(258)

つまり、この建物は家族の破滅性とは全く離れたところに位置する、彼にとっての最後の希望、憧れだ。これこそが社会・経済的に取り残された家族の暮らしを救い出せる唯一の希望なのである。「絨毯事件」のクライマックスで、サーティーが放火の準備に協力しながらも、同時に少佐のもとへ知らせに走るのは、決して良心とかモラルとかに動かされているのではない。この文脈で考えれば、むしろ彼にとっての希望の象徴を守りたいのだ。憧れである平和を彼自身が守るという決心が彼を邸宅へ導いたのだ。

 

この行いは必然的に父への反逆である。しかし、そうやって彼は屈折した親子関係を乗り越え、大人への一歩を踏み出すことになる。敵/味方という関係がここにきて否定される。このように読むと、絶望と平和とのあいだで揺れ動いた少年の成長の物語として読めるのではないか。

 

 

フォークナー短編集 (新潮文庫)

フォークナー短編集 (新潮文庫)

 

 

解釈:村上春樹「レキシントンの幽霊」

最近『レキシントンの幽霊』を再読している。前回の「沈黙」に続き、今回は表題作の感想を書こうと思う。  

 

レキシントンの幽霊」は、村上ワールドで最も重要なキーワードの一つ、「異界」(「あの世」、「向こう側の世界」)が物語のメインにあり、ある意味、「らしい」短編と言える。『羊をめぐる冒険』、『ねじまき鳥クロニクル』などを持ち出すまでもなく、村上ワールドでは、主人公が現実でない何かに迷い込む。その異界は、しばしば超現実的な経験(非現実の逆である)を、現実世界以上に訴えかける。

 

本作は場面場面でいくつか解釈の分かれ道があり、どの時点でどこに進むかによって最終目的地も大きく変わる。今から述べる解釈は、自分に死が近いことを感じ取ったケイシーが、ジェレミーの代わりに僕を「異界」に誘おうと試み、失敗した、というものである。

 

主人公の僕は、ボストン郊外の屋敷に住み膨大なジャズ・レコードのコレクションを所有するケイシーという男と友人になる。彼は調律師のジェレミーと愛犬マイルズと一緒にボストン郊外の閑静な屋敷に暮らしていた。ある日、彼から、レコードを好きなだけ聴いていいからと、1週間の留守番とマイルズの世話を頼まれた。ジェレミーも実家の母親の具合が悪く、家を離れていたからだ。

 

僕は、その屋敷に泊まった最初の晩、階下の居間でパーティをしているような音で目を覚ます。しかし、その非現実な感覚から、それが幽霊のパーティであることに気が付く。彼は、恐怖のあまり、居間の扉を開けず自室に戻り、その晩をやり過ごした。幸運にも、幽霊が出たのはその晩だけで、1週間後、ケイシーに無事、家を明け渡す。ここでの主人公の心霊体験は、状況的に「夢オチ」である。マイルズの姿が見えなかったのは、それが夢であることをを示唆しているのかもしれない。ただ、ケイシーの忠犬マイルズも幽霊と共犯であるならば、「ひどく寂しがりや」で、寝るとき以外は「必ず誰かのそばにい」る振りをして、実は主人公を始終監視していたということも考えられる。主人公が幽霊と「対面」した際、マイルズは役目でないから見えなかったのではないか。

 

そして、ケイシーが家に着いた時の描写は決定的である。

「どうだ、留守の間に何かかわったことはなかった?」ケイシーは玄関先でまず僕にそう尋ねた。

 

彼はこの屋敷に幽霊が出ることを以前から知っていた。では幽霊とどのような関係にあったかというと、それから半年後、主人公がケイシーと再会した際に判明する。ケイシーは、ここで、母親が亡くなったときに父親が、父親が亡くなったときに彼自身が、数週間眠り続けたというエピソードを話し始める。眠るという行為、これはあの幽霊屋敷においては、幽霊との接点が夢の中であることからして、「下界」と「異界」を繋ぐ手段だ。ゆえに、愛する人(それが夫婦愛であれ親子愛であれ)が亡くなった時に眠り続けるのは、故人への最後のお別れなのではないだろうか。その間、眠っている人は「予備的な死者」(38)となる。愛する人のために(一時的にであれ)死ぬことは、もはや究極の愛だが、一方、それが同時に先祖との顔合わせでなのであれば、あのパーティのようにとても賑やかで楽しいものなのかもしれない。作中では幽霊や死は、決して悲観的には描かれていない。村上の「解題」によれば、この地方の幽霊はむしろ「屋敷の資産」であり丁重に扱われる存在であるからだ。確かに作中に登場する幽霊は、主人公に実害を与えたわけでもなく、現れたのも一度きりだった。また、屋敷の様子も決して陰鬱で恐怖感をいたずらに感じさせる雰囲気ではなかった。ある考察では、ジャズ・レコードのコレクションが屋敷のレコード(記録)を暗示していて、屋敷はケイシー一族の先祖ではないかという意見があった。レコードが何を意味するにせよ、幽霊は屋敷と深い関わりあるようだ。

 

いずれにせよ、ケイシーは父親の死以来、「予備的な死者」として、自分が死ねば眠り続けてくれるような「恋人」を探していた。しかし、ジェレミーがいなくなった今、もはやその願いは叶わなくなってしまった。確かに、ケイシーとジェレミーとの関係は単なる同居人以上であることを示唆している。病気のように老け込んでいたケイシーは、ジェレミーの母親が亡くなり、ジェレミーがそのショックで「ろくでもない星座の話」しかしなくなったことを告げる。もう彼はこっちに帰ってこないというかもしれないという話を聞いた主人公は、こう言う。

 

「気の毒だね(I'm really sorry)」と僕は言った。でも誰に対してそう言っているのか、自分でもよくわからなかった。

 

ここで、主人公が「わからなかった」のは、母親を亡くしたジェレミーだけでなく、ジェレミーとの同居生活が終を告げたケイシーに対しても同情していたからだ。要するに、主人公も二人の同性愛関係に薄々気がついていたのだが、プライベートな部分ゆえにあえて触れず、「気の毒」だと言ったのだ。確かに、アメリカでは、あの名作テレビドラマ『フルハウス』で男性三人の共同生活が、同性愛を匂わせたのと同じように、同性同士の生活は同性愛を匂わせる。であるならば、ケネシーが急に老け込んだのも、死が近いだけでなく、愛する人を失ったことも大きいのだろう。

 

主人公は屋敷の夢の中で、居間に続く扉を開けなかったことでなんとか逃げ延びた。愛は時までも越える、としばしば言うが、まさしくあの屋敷では愛する人のために自らも死者に近づくことで、永遠の愛を手に入れることができるのかもしれない。しかし、そのようなその愛は一方向である。自分が愛するのと同じように、他の誰かからも愛されたいと願う気持ちが、人々をあのホールに誘い込むのである。

 

眠りの世界が僕にとってのほんとうの世界で、現実の世界はむなしい仮初めの世界に過ぎなかった。それは色彩を欠いた浅薄の世界だった。そんな世界でこれ以上生きていたくなんかないとさえ思った。(37)

 

 様々な歴史が沈殿する閑静な屋敷の中では過去と現在が混在する。そのような世界で愛する人が死んだとき、その人自身の時も止まる。いや、止まっているように見えても、向こう側の世界としてパラレルに動きつづけている。その時間は永遠であり、また同時に一瞬でもある。そんな還元できない時間軸の中で生者は死者と共存するのである。

 

 

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

 

 

書評:村上春樹「沈黙」

レキシントンの幽霊』に収録されている「沈黙」という作品を今回は取り上げたい。この作品はなんでも中学の集団読書用テキストに掲載されているようで、意外と知名度は高い。

 

正直言うと、この短編は村上春樹のいつもの作品と違い、謎解きや不思議な要素があまりなく、どのように書くか迷った。他の書評を見てみると、学校教育や友人関係、いじめのような視点から書かれていることが多かったし、それは確かに正攻法だろう。また、一部の読者は語り手である大沢さんの言動に不信感を持ち、彼が言う「青木のような人間の言うことを無批判に受け入れる」ということを、彼自身と物語全体に当てはめようとしていた。いわゆる「信用できない語り手」の手法であり、確かにと思ってしまった。

 

集団読書用のテキストらしく、大沢さんの視点で語られるゆえに、客観的な事実が最後まで見えないのが、この物語の面白いところだ。大沢さんの語りから伺えるのは、青木に対する並々ならぬ憎しみである。丁寧に読んでいくと、その憎しみにはあまり根拠がないことがわかる。クラスの人気者である彼への生理的な拒否感、殴ってしまったことに対する罪悪感の欠如、クラスメイトの自殺に対する素っ気無さ等、あまりにも自分の世界に閉じこもってしまい、視野の狭さが気にかかってしまう。

 

ただ、そのような偏った視野は誰にでもあるだろうし、青木もその点は同じだろう。しかし、何より怖いのが、彼の青木に対する憎しみがその周りの人々にまで広がってしまった点である。もちろんそれは教師に裏切られたという思いが発端にあるだろうし、彼をただ責めるものでもない。しかし、大沢さんは発言できない状況に陥っていたわけでは無かった、つまり、自殺した松本と違いそれは「声なき声」ではなく、自身のプライドが選択肢を狭め続けた結果である。少なくとも「青木に踊らされている連中」にとっても幾ばくかフェアではないように思う。

 

ただ、仮に松本と大沢さんに決定的な違いがあるにせよ、「沈黙」せざるを得ない状況に陥ったとき、負の感情は拡大していく。大沢さんの悪夢に出る顔のない人々は、実は彼の自己投影に過ぎない。現代社会においては自己完結した世界というものはフィクションであるからして、自らコミュニケーションを放棄した者が、その周りの人々の顔を描けないのは当然である。大切なことはどのようにして他人の顔を自ら描いていくか、ということではないだろうか。

 

 

 

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)