ゴンポリズム

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解釈:村上春樹「レキシントンの幽霊」

最近『レキシントンの幽霊』を再読している。前回の「沈黙」に続き、今回は表題作の感想を書こうと思う。  

 

レキシントンの幽霊」は、村上ワールドで最も重要なキーワードの一つ、「異界」(「あの世」、「向こう側の世界」)が物語のメインにあり、ある意味、「らしい」短編と言える。『羊をめぐる冒険』、『ねじまき鳥クロニクル』などを持ち出すまでもなく、村上ワールドでは、主人公が現実でない何かに迷い込む。その異界は、しばしば超現実的な経験(非現実の逆である)を、現実世界以上に訴えかける。

 

本作は場面場面でいくつか解釈の分かれ道があり、どの時点でどこに進むかによって最終目的地も大きく変わる。今から述べる解釈は、自分に死が近いことを感じ取ったケイシーが、ジェレミーの代わりに僕を「異界」に誘おうと試み、失敗した、というものである。

 

主人公の僕は、ボストン郊外の屋敷に住み膨大なジャズ・レコードのコレクションを所有するケイシーという男と友人になる。彼は調律師のジェレミーと愛犬マイルズと一緒にボストン郊外の閑静な屋敷に暮らしていた。ある日、彼から、レコードを好きなだけ聴いていいからと、1週間の留守番とマイルズの世話を頼まれた。ジェレミーも実家の母親の具合が悪く、家を離れていたからだ。

 

僕は、その屋敷に泊まった最初の晩、階下の居間でパーティをしているような音で目を覚ます。しかし、その非現実な感覚から、それが幽霊のパーティであることに気が付く。彼は、恐怖のあまり、居間の扉を開けず自室に戻り、その晩をやり過ごした。幸運にも、幽霊が出たのはその晩だけで、1週間後、ケイシーに無事、家を明け渡す。ここでの主人公の心霊体験は、状況的に「夢オチ」である。マイルズの姿が見えなかったのは、それが夢であることをを示唆しているのかもしれない。ただ、ケイシーの忠犬マイルズも幽霊と共犯であるならば、「ひどく寂しがりや」で、寝るとき以外は「必ず誰かのそばにい」る振りをして、実は主人公を始終監視していたということも考えられる。主人公が幽霊と「対面」した際、マイルズは役目でないから見えなかったのではないか。

 

そして、ケイシーが家に着いた時の描写は決定的である。

「どうだ、留守の間に何かかわったことはなかった?」ケイシーは玄関先でまず僕にそう尋ねた。

 

彼はこの屋敷に幽霊が出ることを以前から知っていた。では幽霊とどのような関係にあったかというと、それから半年後、主人公がケイシーと再会した際に判明する。ケイシーは、ここで、母親が亡くなったときに父親が、父親が亡くなったときに彼自身が、数週間眠り続けたというエピソードを話し始める。眠るという行為、これはあの幽霊屋敷においては、幽霊との接点が夢の中であることからして、「下界」と「異界」を繋ぐ手段だ。ゆえに、愛する人(それが夫婦愛であれ親子愛であれ)が亡くなった時に眠り続けるのは、故人への最後のお別れなのではないだろうか。その間、眠っている人は「予備的な死者」(38)となる。愛する人のために(一時的にであれ)死ぬことは、もはや究極の愛だが、一方、それが同時に先祖との顔合わせでなのであれば、あのパーティのようにとても賑やかで楽しいものなのかもしれない。作中では幽霊や死は、決して悲観的には描かれていない。村上の「解題」によれば、この地方の幽霊はむしろ「屋敷の資産」であり丁重に扱われる存在であるからだ。確かに作中に登場する幽霊は、主人公に実害を与えたわけでもなく、現れたのも一度きりだった。また、屋敷の様子も決して陰鬱で恐怖感をいたずらに感じさせる雰囲気ではなかった。ある考察では、ジャズ・レコードのコレクションが屋敷のレコード(記録)を暗示していて、屋敷はケイシー一族の先祖ではないかという意見があった。レコードが何を意味するにせよ、幽霊は屋敷と深い関わりあるようだ。

 

いずれにせよ、ケイシーは父親の死以来、「予備的な死者」として、自分が死ねば眠り続けてくれるような「恋人」を探していた。しかし、ジェレミーがいなくなった今、もはやその願いは叶わなくなってしまった。確かに、ケイシーとジェレミーとの関係は単なる同居人以上であることを示唆している。病気のように老け込んでいたケイシーは、ジェレミーの母親が亡くなり、ジェレミーがそのショックで「ろくでもない星座の話」しかしなくなったことを告げる。もう彼はこっちに帰ってこないというかもしれないという話を聞いた主人公は、こう言う。

 

「気の毒だね(I'm really sorry)」と僕は言った。でも誰に対してそう言っているのか、自分でもよくわからなかった。

 

ここで、主人公が「わからなかった」のは、母親を亡くしたジェレミーだけでなく、ジェレミーとの同居生活が終を告げたケイシーに対しても同情していたからだ。要するに、主人公も二人の同性愛関係に薄々気がついていたのだが、プライベートな部分ゆえにあえて触れず、「気の毒」だと言ったのだ。確かに、アメリカでは、あの名作テレビドラマ『フルハウス』で男性三人の共同生活が、同性愛を匂わせたのと同じように、同性同士の生活は同性愛を匂わせる。であるならば、ケネシーが急に老け込んだのも、死が近いだけでなく、愛する人を失ったことも大きいのだろう。

 

主人公は屋敷の夢の中で、居間に続く扉を開けなかったことでなんとか逃げ延びた。愛は時までも越える、としばしば言うが、まさしくあの屋敷では愛する人のために自らも死者に近づくことで、永遠の愛を手に入れることができるのかもしれない。しかし、そのようなその愛は一方向である。自分が愛するのと同じように、他の誰かからも愛されたいと願う気持ちが、人々をあのホールに誘い込むのである。

 

眠りの世界が僕にとってのほんとうの世界で、現実の世界はむなしい仮初めの世界に過ぎなかった。それは色彩を欠いた浅薄の世界だった。そんな世界でこれ以上生きていたくなんかないとさえ思った。(37)

 

 様々な歴史が沈殿する閑静な屋敷の中では過去と現在が混在する。そのような世界で愛する人が死んだとき、その人自身の時も止まる。いや、止まっているように見えても、向こう側の世界としてパラレルに動きつづけている。その時間は永遠であり、また同時に一瞬でもある。そんな還元できない時間軸の中で生者は死者と共存するのである。

 

 

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

 

 

書評:村上春樹「沈黙」

レキシントンの幽霊』に収録されている「沈黙」という作品を今回は取り上げたい。この作品はなんでも中学の集団読書用テキストに掲載されているようで、意外と知名度は高い。

 

正直言うと、この短編は村上春樹のいつもの作品と違い、謎解きや不思議な要素があまりなく、どのように書くか迷った。他の書評を見てみると、学校教育や友人関係、いじめのような視点から書かれていることが多かったし、それは確かに正攻法だろう。また、一部の読者は語り手である大沢さんの言動に不信感を持ち、彼が言う「青木のような人間の言うことを無批判に受け入れる」ということを、彼自身と物語全体に当てはめようとしていた。いわゆる「信用できない語り手」の手法であり、確かにと思ってしまった。

 

集団読書用のテキストらしく、大沢さんの視点で語られるゆえに、客観的な事実が最後まで見えないのが、この物語の面白いところだ。大沢さんの語りから伺えるのは、青木に対する並々ならぬ憎しみである。丁寧に読んでいくと、その憎しみにはあまり根拠がないことがわかる。クラスの人気者である彼への生理的な拒否感、殴ってしまったことに対する罪悪感の欠如、クラスメイトの自殺に対する素っ気無さ等、あまりにも自分の世界に閉じこもってしまい、視野の狭さが気にかかってしまう。

 

ただ、そのような偏った視野は誰にでもあるだろうし、青木もその点は同じだろう。しかし、何より怖いのが、彼の青木に対する憎しみがその周りの人々にまで広がってしまった点である。もちろんそれは教師に裏切られたという思いが発端にあるだろうし、彼をただ責めるものでもない。しかし、大沢さんは発言できない状況に陥っていたわけでは無かった、つまり、自殺した松本と違いそれは「声なき声」ではなく、自身のプライドが選択肢を狭め続けた結果である。少なくとも「青木に踊らされている連中」にとっても幾ばくかフェアではないように思う。

 

ただ、仮に松本と大沢さんに決定的な違いがあるにせよ、「沈黙」せざるを得ない状況に陥ったとき、負の感情は拡大していく。大沢さんの悪夢に出る顔のない人々は、実は彼の自己投影に過ぎない。現代社会においては自己完結した世界というものはフィクションであるからして、自らコミュニケーションを放棄した者が、その周りの人々の顔を描けないのは当然である。大切なことはどのようにして他人の顔を自ら描いていくか、ということではないだろうか。

 

 

 

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

 

 

書評:村上春樹『1973年のピンボール』

村上春樹は大学時代に初めて触れて以来、愛読する作家だ。大学の著名な先輩としてごんぽりが意識する、数少ない一人と言って良い。と言っても最近の作品はほとんど読まず、『アフターダーク』あたりまだが。。。

 

今回、読んだ『1973年のピンボール』は、羊三部作とか、青春三部作とか言われる二作目だ。この本を選んだのにはあまり意味はない。この前後の作品の方がよく読むのだが、久しぶりに『ピンボール』を読んでみたくなったのだ。

 

村上春樹を語る際、デタッチメントだの消費社会だの翻訳調だの、いろいろ言われてきたが、そんな紋切り型の意見には、ハルキストもそろそろお腹いっぱいではなかろうか。しかし一方で、そこらへんに触れなければ彼の作品が見えてこないのも事実であって、結局そういう性質以上の作品でもないのだろうかとも思う。

 

村上の小説は、一見すると、各エピソードの繋がりやテーマが見えにくいことが多い。しかし、『風の歌を聞け』や『羊をめぐる冒険』でもそうだが、物語冒頭の語りが作品全体を通して決定的なヒントを与えてくれる。それは、彼のこの三部作が、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』から多くの影響を受けているためだ。あの小説も冒頭の独白によって、これから話すことが主人公にとってどのような意味をもったのか語られる。主人公の心の中では、その物語の価値判断は勿論既に定まっている。冒頭で、読者は物語の内容や結末が分からないにも関わらず、結末を読み終えた際に感じる読後感や教訓をいきなり、しかもかなりしっかりと与えられる。ゆえに、感の良い人なら、小説を7割読み終えたところで1ページ目を思い出し、結末を予想することが可能だろう。

 

羊三部作もこれと全く同様で、しかも物語の核心部分が分かりにくいから、『ギャツビー』以上に大きな意味を持つ。さらに、その冒頭は『ギャツビー』さながら教訓めいている。この頃の村上は小説を一つの教訓として表現しようとしていたように思えてしまう。その意味でごんぽりは、これらを「教訓三部作」と読んでいる。

 

話を『ピンボール』に戻そう。この物語の冒頭はこうだ。

 

 見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。

 一時期、十年も昔のことだが、手当たり次第にまわりの人間をつかまえては生まれ故郷や育った土地の話を聞いてまわったことがある。他人の話を進んで聞くというタイプの人間が極端に不足していた時代であったらしく、誰も彼もが親切にそして熱心に語ってくれた。見ず知らずの人間が何処かで僕の噂を聞きつけ、わざわざ話しにやって来たりもした…(中略)…理由こそわからなかったけれども、誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた。

 

冒頭のこのエピソードは、物語が進む中でどのような意味をもつのだろうか。この作品を読み進めると、実に多くのものが、代替可能な消費物を暗示していることに気が付く。主人公が生業とする翻訳業、双子の姉妹、配電盤の交換、そして何よりもピンボールマシーン。主人公の生活は、右から左へひたすら消費・交換されていくものに取り巻かれている。

 

かつて、世界とは自分の存在をしきりに訴える場であったし、なによりも個々人には星(土星人・金星人)の距離ほど遠い出自とアイデンティティがあった。自分の世界を伝えることは(僕の電話の取り次ぎのごとく)大変で面倒な作業だったに違いない。それでもそこには代替不可能な「唯一性」と「生の声」があった。

 

しかし、今は違う。それを語る手段を必要としないのは、語る理由がないからだ。社会は代替可能なものであふれ、僕自らも翻訳業を通じて、その一端を担う。なにより自らも個人の本質が何によって決められるのか、決められないのかわからない。双子の姉妹は交換可能な一人として生を受け、その現状を何も疑わない若者のように見える。そして、そのような巨大な社会に沿わないものは配電盤のごとく交換され、拒もうとすれば厄介者扱いされる。しかし、その代替物にも勿論差異はあるし、それとともに過ごした人々の記憶もある。そのような失われた記憶と経験は養鶏場の冷凍倉庫のように一箇所に集められ、社会の端へ端へ追いやられていく。

 

私たちが生きているのはそのような世界である。村上は早くからこの巨大な世界=システムに警鐘を鳴らしていた。しかし、学生運動に挫折した60年代と違い、これからはそのシステムに自らを順応させていきながら、つまり全てを理解し確信犯的に共謀しながらも、そこから一定の距離を取ることで個人としてのアイデンティティを何とかして維持しようという時代なのである。

 

処女作『風の歌を聞け』がそのような便利な時代の青春を無垢に描いたのだとすれば、本作でその実像を暗示し、次作『羊をめぐる冒険』で決定的に対決する。巨大な敵を初めて扱う次作に至るまでの大いなる予感として、本作は位置づけられるだろう。

 

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

考察:アニメ『僕だけがいない街』

 最近、無性にアニメやドラマを観たくなる。そこで、何か面白そうなものを探していたところ、『僕だけがいない街』(2016年)というアニメがなかなか面白かったので感想を書きたい。

 

 このアニメは「リバイバル」というタイムループ能力を持つ主人公(悟)が、小学時代の連続児童誘拐事件を解決するため、18年前に戻るというストーリーだ。もともと原作漫画があり、アニメとは最終回の結末や伏線の張り方が少し異なるらしい。今回はアニメのみを観た感想になる。

 

 率直な感想を言えば、いろいろな考察ができる奥の深いアニメだった。いわゆる「タイムループもの」と呼ばれるSFストーリーである一方、80年代当時の児童虐待や冤罪被害が絡んだシリアスな展開もあり、虚構性と社会性(現実感)のバランスがよく取れていた。しかし、何より目を引いたのは、真犯人が陥る状況と心理がトリッキーな構成(入れ子構造)になっている点だ。

 

 

《八代先生と「蜘蛛の糸」》

 悟の小学時代の担任でもあり、また、当時3件の児童誘拐殺人事件を起こした八代は、屈折した快楽を持っていた。小学時代、クラスメイトからもらった8匹のハムスターを溺死させようとした際、そのうちの1匹が他の死骸の上に乗りながら生き延びているのを目撃する。その様子が、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に登場する主人公カンダタを連想させた。極悪非道の限りを尽くしたカンダタが、生前たった一度だけ蜘蛛の命を救ったという理由で、お釈迦様から蜘蛛の糸を垂らしてもらい、極楽へ昇るチャンスを得るという、あのお話である。八代はハムスターの一件以来、特定の人の頭の上に、この「蜘蛛の糸」を見出すようになる。

 

 そして、彼は「お釈迦様」として「カンダタ」である児童の生を弄び(糸を垂らし)、最後に殺害する(糸を切る)。作中では加代の例が典型的だろう。母親から虐待を受け、希望を失った加代を救うべく児童相談所に何度も掛け合ったり、悟と真摯に相談したりする描写は、一見、誠実で信頼できる教員像を第三者に与える。これは要するにミスリードなのだが、後に判明する犯人像とのギャップは、演技というよりも彼の二面性を表している。つまり、他人に一筋の希望を与え、生きることへの喜びと期待を悪戯に感じさせながらも結局は無慈悲に裏切られる絶望感を、標的の児童に与えたいのかもしれない。

 

 しかし、「お釈迦様」として振る舞う八代も、大局的には間違いなく「カンダタ」であった。彼は加代たちの殺害を阻止した悟を殺そうとし、失敗する。しかし、悟が植物状態になると、それまでの殺人衝動は彼から消え、悟の殺害を渋るようになる。そして、極悪の限りを尽くしながらも、たった一度の善行をした(悟を見逃した)「カンダタ」として、八代に「糸」が垂れ始める(その糸は、悟が目覚めた後、彼を屋上から落としたことで切れる)。

 

 このように、悟が八代に糸を垂らしながらも、八代自身も加代達に糸を垂らすという、入れ子構造が見られるのである。しかし、もちろん被害児童らは「極悪人」ではない。では、なぜ彼女たちから糸が垂れるのか。これには様々な解釈があるだろう。個人的には、ときとして這い上がることの難しい絶望的な状況に身を置きながらも、どんな時でも彼女たちは(糸一本分の)わずかな希望を忘れないからではないだろうか。その意味で、各々、苦しみを抱えつつ、挫けず順応し続ける子どもたちの強さを感じたいところだ。

 

 

僕だけがいない街

 この題名は、そのマイナスな響きとは反対に非常にヒロイックな意味合いを持つ。悟の植物状態をきっかけに、八代の犯行は身を潜めるようになった。悟も認めるように、彼がいなくなるのはある種の自己犠牲であり、複数の人たちの命を救ったという点で大きな役割を果たした。文字通り、彼は真のヒーローに「生まれ変わった」と言える。

 

 

 正直、物語の中盤には、真犯人が八代先生なのが予想できてしまうのだが、いろいろな考察が可能なストーリーなのでオススメしとこう。

 

 

#1 走馬灯

#1 走馬灯

 

 

ラジオの今後

ラジオドラマというものがある。YouTubeにも多くアップされていて、様々な物語を気軽に聴ける。SFから名作文学、創作小説までジャンルは様々で、放送時間も10分程のものから120分を超える長編まで揃う。私は今、そのラジオドラマにハマっている。

この娯楽の優れた点は、再生ボタンさえ押せば何もしなくても内容が伝えられ、さらにその場に応じて別の用事も済ませられることだ。そこがテレビ視聴とは異なるところだろう。しかし、ただ受動的であれば良いのかと言えば、もちろんそうではない。内容を把握し、情景を思い浮かべることは最低限必要だ。それは脳の活性化にも少しばかり貢献する。確かに、ボケ防止にはラジオドラマを聴け、という専門家もいるぐらいだ。

そのラジオ、今後はどうなるのだろうか。かつて、ブラウン菅テレビが家庭での主要なメディアだった時代、ラジオの利点は気軽さ、ハンディさだった。しかし、現在、その役割はスマホタブレットに奪われつつある。「ハンディ・メディア」としての役割は今後ますます後者が担っていくだろう。

しかし、ラジオの未来はそれほど悲観的でもなさそうだ。そもそも、メディアとして情報を得るには、読む・聞く・観るの3つの手段がある。これまで新聞、ラジオ、テレビがそれぞれの役割を担っていた。そして、今後は、スマホタブレットが読む、観るの役割を担うだろう。

聞く(のみの)メディアはどうかといえば、Podcastやラジオアプリの登場でネットとリンクし始めた。つまり、聴覚のみを手段とした情報獲得は、いまだ根強い人気とニーズがあるのだ。

確かにPodcastの登場は革新的だと言って良い。ラジオ局の放送時間、放送枠にとらわれず、多様な人が手軽に配信できる。配信側としても情報を文字に起こしたり、動画を撮ったりすることと違って手間もかからない。

こう考えれば、どれほど映像が鮮やかになっても「聞く文化」は無くならない。たとえ、ラジオ局の縮小が起こったとすれば、それはネット配信を軸とした、「聞くメディア」の新しい形であり、広い意味でその文化は残り続けるのだろう。

ゴンポリズムと愛読書

当ブログ、ゴンポリズムはごんぽりが本の感想や解釈を中心に書いていくブログです。

ごんぽりは小さい頃から読書感想文というものが苦手で、いつかすらすら書けるようになりたい、と思っていました。高校時代に読書に目覚め、大学時代は引きこもって本を読む毎日でした。

そんななか、そろそろインプットだけでなくアウトプットもしよう、憧れを現実にしてみようと思い、立ち上げてみました。主に書評、最初は短編を中心に書く予定ですが、アニメやドラマ、映画の感想も書けたらと思っています。

本の紹介というよりは、皆さんが読書後に、自身とは違った感想・解釈を求めて検索・発見することを想定しています。

せっかくなので、初めにごんぽりの愛読書を紹介しておきます。これらの本についても、後々取り上げるつもりです。

⚫︎フォークナー『八月の光

1930年代のアメリカ南部における黒人差別を描いた小説。ただし、この物語の射程は人種問題だけでは決してない。社会と個人、過去と現在、男と女。様々なテーマをこれほどまでに重層かつ端整に描き切ったのは見事という他ない。大学時代、これを読んで私はアメリカ黒人史を志した。

 

 

⚫︎村上春樹羊をめぐる冒険

彼の小説はどのように読めば良いのだろうか。憧れ?それとも反面教師?しばしば女性差別的だと言われながらも、彼の小説は、読者の心に潜む一番柔らかい部分をえぐり出す。

 

 

⚫︎ピート・ダニエル『失われた革命 1950年代のアメリカ南部』

50年代アメリカの南部社会を描いた数少ない邦書。一人ひとりの生と葛藤の記録が活き活きと、時として生々しく描かれている。正義/不正義で語るのは容易いが、そんなものを超えた南部市民の生き様は、そこらの小説よりもよっぽど響く。読者として、時代も地域も違う歴史書をどう読み解くか、私たちはそこから何を学ぶべきか、そんなことをつい考えてしまう隠れた名著。

 

 

⚫︎ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』

言わずと知れたナショナリズム論の古典。アイデアの奇抜さ、説得力、学問的貢献度、どれをとっても、教養として一度は読みたい一冊。とりわけ、嫌韓とか美しい国日本とかをまともに信じている日本人は、これを読めば自身の偏屈な価値観が崩れ去ることだろう。

 

 

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)