ゴンポリズム

読むこと、観ること、考えること。

村上春樹『1973年のピンボール』(講談社)

村上春樹は大学時代に初めて触れて以来、愛読する作家だ。大学の著名な先輩としてごんぽりが意識する、数少ない一人と言って良い。と言っても最近の作品はほとんど読まず、『アフターダーク』あたりまだが。。。

 

今回、読んだ『1973年のピンボール』は、羊三部作とか、青春三部作とか言われる二作目だ。この本を選んだのにはあまり意味はない。この前後の作品の方がよく読むのだが、久しぶりに『ピンボール』を読んでみたくなったのだ。

 

村上春樹を語る際、デタッチメントだの消費社会だの翻訳調だの、いろいろ言われてきたが、そんな紋切り型の意見には、ハルキストもそろそろお腹いっぱいではなかろうか。しかし一方で、そこらへんに触れなければ彼の作品が見えてこないのも事実であって、結局そういう性質以上の作品でもないのだろうかとも思う。

 

村上の小説は、一見すると、各エピソードの繋がりやテーマが見えにくいことが多い。しかし、『風の歌を聞け』や『羊をめぐる冒険』でもそうだが、物語冒頭の語りが作品全体を通して決定的なヒントを与えてくれる。それは、彼のこの三部作が、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』から多くの影響を受けているためだ。あの小説も冒頭の独白によって、これから話すことが主人公にとってどのような意味をもったのか語られる。主人公の心の中では、その物語の価値判断は勿論既に定まっている。冒頭で、読者は物語の内容や結末が分からないにも関わらず、結末を読み終えた際に感じる読後感や教訓をいきなり、しかもかなりしっかりと与えられる。ゆえに、感の良い人なら、小説を7割読み終えたところで1ページ目を思い出し、結末を予想することが可能だろう。

 

羊三部作もこれと全く同様で、しかも物語の核心部分が分かりにくいから、『ギャツビー』以上に大きな意味を持つ。さらに、その冒頭は『ギャツビー』さながら教訓めいている。この頃の村上は小説を一つの教訓として表現しようとしていたように思えてしまう。その意味でごんぽりは、これらを「教訓三部作」と読んでいる。

 

話を『ピンボール』に戻そう。この物語の冒頭はこうだ。

 

 見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。

 一時期、十年も昔のことだが、手当たり次第にまわりの人間をつかまえては生まれ故郷や育った土地の話を聞いてまわったことがある。他人の話を進んで聞くというタイプの人間が極端に不足していた時代であったらしく、誰も彼もが親切にそして熱心に語ってくれた。見ず知らずの人間が何処かで僕の噂を聞きつけ、わざわざ話しにやって来たりもした…(中略)…理由こそわからなかったけれども、誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた。

 

冒頭のこのエピソードは、物語が進む中でどのような意味をもつのだろうか。この作品を読み進めると、実に多くのものが、代替可能な消費物を暗示していることに気が付く。主人公が生業とする翻訳業、双子の姉妹、配電盤の交換、そして何よりもピンボールマシーン。主人公の生活は、右から左へひたすら消費・交換されていくものに取り巻かれている。

 

かつて、世界とは自分の存在をしきりに訴える場であったし、なによりも個々人には星(土星人・金星人)の距離ほど遠い出自とアイデンティティがあった。自分の世界を伝えることは(僕の電話の取り次ぎのごとく)大変で面倒な作業だったに違いない。それでもそこには代替不可能な「唯一性」と「生の声」があった。

 

しかし、今は違う。それを語る手段を必要としないのは、語る理由がないからだ。社会は代替可能なものであふれ、僕自らも翻訳業を通じて、その一端を担う。なにより自らも個人の本質が何によって決められるのか、決められないのかわからない。双子の姉妹は交換可能な一人として生を受け、その現状を何も疑わない若者のように見える。そして、そのような巨大な社会に沿わないものは配電盤のごとく交換され、拒もうとすれば厄介者扱いされる。しかし、その代替物にも勿論差異はあるし、それとともに過ごした人々の記憶もある。そのような失われた記憶と経験は養鶏場の冷凍倉庫のように一箇所に集められ、社会の端へ端へ追いやられていく。

 

私たちが生きているのはそのような世界である。村上は早くからこの巨大な世界=システムに警鐘を鳴らしていた。しかし、学生運動に挫折した60年代と違い、これからはそのシステムに自らを順応させていきながら、つまり全てを理解し確信犯的に共謀しながらも、そこから一定の距離を取ることで個人としてのアイデンティティを何とかして維持しようという時代なのである。

 

処女作『風の歌を聞け』がそのような便利な時代の青春を無垢に描いたのだとすれば、本作でその実像を暗示し、次作『羊をめぐる冒険』で決定的に対決する。巨大な敵を初めて扱う次作に至るまでの大いなる予感として、本作は位置づけられるだろう。

 

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

アニメ『僕だけがいない街』

最近、無性にアニメやドラマを観たくなる。そこで、何か面白そうなものを探していたところ、『僕だけがいない街』(2016年)というアニメがなかなか面白かったので感想を書きたい。

 

このアニメは「リバイバル」というタイムループ能力を持つ主人公(悟)が、小学時代の連続児童誘拐事件を解決するため、18年前に戻るというストーリーだ。もともと原作漫画があり、アニメとは最終回の結末や伏線の張り方が少し異なるらしい。今回はアニメのみを観た感想になる。

 

率直な感想を言えば、いろいろな考察ができる奥の深いアニメだった。いわゆる「タイムループもの」と呼ばれるSFストーリーである一方、80年代当時の児童虐待や冤罪被害が絡んだシリアスな展開もあり、虚構性と社会性(現実感)のバランスがよく取れていた。しかし、何より目を引いたのは、真犯人が陥る状況と心理がトリッキーな構成(入れ子構造)になっている点だ。

 

 

《八代先生と「蜘蛛の糸」》

悟の小学時代の担任でもあり、また、当時3件の児童誘拐殺人事件を起こした八代は、屈折した快楽を持っていた。小学時代、クラスメイトからもらった8匹のハムスターを溺死させようとした際、そのうちの1匹が他の死骸の上に乗りながら生き延びているのを目撃する。その様子が、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に登場する主人公カンダタを連想させた。極悪非道の限りを尽くしたカンダタが、生前たった一度だけ蜘蛛の命を救ったという理由で、お釈迦様から蜘蛛の糸を垂らしてもらい、極楽へ昇るチャンスを得るという、あのお話である。八代はハムスターの一件以来、特定の人の頭の上に、この「蜘蛛の糸」を見出すようになる。

 

そして、彼は「お釈迦様」として「カンダタ」である児童の生を弄び(糸を垂らし)、最後に殺害する(糸を切る)。作中では加代の例が典型的だろう。母親から虐待を受け、希望を失った加代を救うべく児童相談所に何度も掛け合ったり、悟と真摯に相談したりする描写は、一見、誠実で信頼できる教員像を第三者に与える。これは要するにミスリードなのだが、後に判明する犯人像とのギャップは、演技というよりも彼の二面性を表している。つまり、他人に一筋の希望を与え、生きることへの喜びと期待を悪戯に感じさせながらも結局は無慈悲に裏切られる絶望感を、標的の児童に与えたいのかもしれない。

 

しかし、「お釈迦様」として振る舞う八代も、大局的には間違いなく「カンダタ」であった。彼は加代たちの殺害を阻止した悟を殺そうとし、失敗する。しかし、悟が植物状態になると、それまでの殺人衝動は彼から消え、悟の殺害を渋るようになる。そして、極悪の限りを尽くしながらも、たった一度の善行をした(悟を見逃した)「カンダタ」として、八代に「糸」が垂れ始める(その糸は、悟が目覚めた後、彼を屋上から落としたことで切れる)。

 

このように、悟が八代に糸を垂らしながらも、八代自身も加代達に糸を垂らすという、入れ子構造が見られるのである。しかし、もちろん被害児童らは「極悪人」ではない。では、なぜ彼女たちから糸が垂れるのか。これには様々な解釈があるだろう。個人的には、ときとして這い上がることの難しい絶望的な状況に身を置きながらも、どんな時でも彼女たちは(糸一本分の)わずかな希望を忘れないからではないだろうか。その意味で、各々、苦しみを抱えつつ、挫けず順応し続ける子どもたちの強さを感じたいところだ。

 

 

僕だけがいない街

 この題名は、そのマイナスな響きとは反対に非常にヒロイックな意味合いを持つ。悟の植物状態をきっかけに、八代の犯行は身を潜めるようになった。悟も認めるように、彼がいなくなるのはある種の自己犠牲であり、複数の人たちの命を救ったという点で大きな役割を果たした。文字通り、彼は真のヒーローに「生まれ変わった」と言える。

 

 

正直、物語の中盤には、真犯人が八代先生なのが予想できてしまうのだが、いろいろな考察が可能なストーリーなのでオススメしとこう。

ラジオの今後

ラジオドラマというものがある。YouTubeにも多くアップされていて、様々な物語を気軽に聴ける。SFから名作文学、創作小説までジャンルは様々で、放送時間も10分程のものから120分を超える長編まで揃う。私は今、そのラジオドラマにハマっている。

この娯楽の優れた点は、再生ボタンさえ押せば何もしなくても内容が伝えられ、さらにその場に応じて別の用事も済ませられることだ。そこがテレビ視聴とは異なるところだろう。しかし、ただ受動的であれば良いのかと言えば、もちろんそうではない。内容を把握し、情景を思い浮かべることは最低限必要だ。それは脳の活性化にも少しばかり貢献する。確かに、ボケ防止にはラジオドラマを聴け、という専門家もいるぐらいだ。

そのラジオ、今後はどうなるのだろうか。かつて、ブラウン菅テレビが家庭での主要なメディアだった時代、ラジオの利点は気軽さ、ハンディさだった。しかし、現在、その役割はスマホタブレットに奪われつつある。「ハンディ・メディア」としての役割は今後ますます後者が担っていくだろう。

しかし、ラジオの未来はそれほど悲観的でもなさそうだ。そもそも、メディアとして情報を得るには、読む・聞く・観るの3つの手段がある。これまで新聞、ラジオ、テレビがそれぞれの役割を担っていた。そして、今後は、スマホタブレットが読む、観るの役割を担うだろう。

聞く(のみの)メディアはどうかといえば、Podcastやラジオアプリの登場でネットとリンクし始めた。つまり、聴覚のみを手段とした情報獲得は、いまだ根強い人気とニーズがあるのだ。

確かにPodcastの登場は革新的だと言って良い。ラジオ局の放送時間、放送枠にとらわれず、多様な人が手軽に配信できる。配信側としても情報を文字に起こしたり、動画を撮ったりすることと違って手間もかからない。

こう考えれば、どれほど映像が鮮やかになっても「聞く文化」は無くならない。たとえ、ラジオ局の縮小が起こったとすれば、それはネット配信を軸とした、「聞くメディア」の新しい形であり、広い意味でその文化は残り続けるのだろう。

ゴンポリズムと愛読書

当ブログ、ゴンポリズムはごんぽりが本の感想や解釈を中心に書いていくブログです。

ごんぽりは小さい頃から読書感想文というものが苦手で、いつかすらすら書けるようになりたい、と思っていました。高校時代に読書に目覚め、大学時代は引きこもって本を読む毎日でした。

そんななか、そろそろインプットだけでなくアウトプットもしよう、憧れを現実にしてみようと思い、立ち上げてみました。主に書評、最初は短編を中心に書く予定ですが、アニメやドラマ、映画の感想も書けたらと思っています。

本の紹介というよりは、皆さんが読書後に、自身とは違った感想・解釈を求めて検索・発見することを想定しています。

せっかくなので、初めにごんぽりの愛読書を紹介しておきます。これらの本についても、後々取り上げるつもりです。

⚫︎フォークナー『八月の光』

1930年代のアメリカ南部における黒人差別を描いた小説。ただし、この物語の射程は人種問題だけでは決してない。社会と個人、過去と現在、男と女。様々なテーマをこれほどまでに重層かつ端整に描き切ったのは見事という他ない。大学時代、これを読んで私はアメリカ黒人史を志した。

 

 

⚫︎村上春樹羊をめぐる冒険

彼の小説はどのように読めば良いのだろうか。憧れ?それとも反面教師?しばしば女性差別的だと言われながらも、彼の小説は、読者の心に潜む一番柔らかい部分をえぐり出す。

 

 

⚫︎ピート・ダニエル『失われた革命 1950年代のアメリカ南部』

50年代アメリカの南部社会を描いた数少ない邦書。一人ひとりの生と葛藤の記録が活き活きと、時として生々しく描かれている。正義/不正義で語るのは容易いが、そんなものを超えた南部市民の生き様は、そこらの小説よりもよっぽど響く。読者として、時代も地域も違う歴史書をどう読み解くか、私たちはそこから何を学ぶべきか、そんなことをつい考えてしまう隠れた名著。

 

 

⚫︎ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』

言わずと知れたナショナリズム論の古典。アイデアの奇抜さ、説得力、学問的貢献度、どれをとっても、教養として一度は読みたい一冊。とりわけ、嫌韓とか美しい国日本とかをまともに信じている日本人は、これを読めば自身の偏屈な価値観が崩れ去ることだろう。