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ゴンポリズム

読むこと、観ること、考えること。

フォークナー『八月の光』(岩波文庫)

ウィリアム・フォークナーと言えば、アメリカのみならず20世紀を代表する世界的作家と言われている。フォークナーを読んだことのない英文科の卒業生はいないだろうが、それでも、この作家を愛読する日本人はどれだけいるだろうか。

 

フォークナーとの出会いは大学一年生の冬休みだった。翌年から西洋史専攻になることが決まり、アメリカ史でも学ぼうかとぼんやり考えていた当時、雑貨店っぽさを売りにした某書店で、平積みされていた加島祥造訳『八月の光』を偶然目にした。表紙に描かれた淡く綺麗な平野の絵に目を奪われ(この表紙が気に入って表紙買いした人も多いのではないだろうか)、さらに、裏表紙の「…現代における人間の疎外と孤立を扱った象徴的な作品」という哲学的な宣伝文句に惹かれて衝動買いした。

 

この作品を初めて読んだときの感動は今でもよく覚えている。「これが小説なんだ、これこそ文学なんだ」という言葉を何度も呟いた(後にアメリカ文学の講義で、教授が全く同じ感想を言ったことには驚いたが…)。とは言え、それは当時の自分がその感動を上手く言葉に出来なかったからでもある。フィッツジェラルドヘミングウェイにはない、南部文学の土臭さ、田舎臭さに戸惑ったし、なによりクリスマスとリーナ以外の、脇役と呼ぶには勿体無いほど多くの個性的な登場人物が、象徴的な部分でどう結びつくのか、そして全体として何を言わんとしているのか分からなかった。それでも、夢中でページをめくり、全て読み終えたとき、あの『グレート・ギャツビー』でさえ薄っぺらく感じた。そして、20世紀のアメリカ文学を知ったような気になっていた自分が妙に情けなくなってしまったのだ。もちろん『ギャツビー』がアメリカ人の心を強く揺さぶるような「アメリカらしさ」を持つのは間違いない。それでも、フォークナーの描くアメリカ南部は、それまで抱いていたアメリカ像を根底から覆しただけでなく、他のアメリカ小説にはない質的に違った感触(ほとんどトラウマに近いもの)を自分に残していった。

 

今年の10・11月に岩波文庫から出た諏訪部浩一訳『八月の光』を読んで感じたのは、この物語が、非常にコンパクトで説得力を持った南部社会の縮図になっているということだ。

 

クリスマス、リーナ、ハイタワーの3人は南部の何かしらを象徴している。クリスマスが人種差別だとすれば、リーナは南部淑女、ハイタワーは南北戦争の記憶だろうか。この3つは南部白人精神の柱のようなものだと思うのだが、それらが彼ら(彼女ら)を通じて歪曲的に表現されている。混血の差別主義者、南部淑女たろうとする未婚の女性、神(教会)に見捨てられた牧師。彼らは南部白人社会の腫れモノであり、それは南部的価値観の境界にいることを意味する。そして、自身と社会との折り合いを模索する、言わば社会の異端者である。クリスマスがその境界線を越えようとすれば、一方でリーナは中心を目指し、ハイタワーはそこに留まる。さらに、南部白人観の境界は生と死をも連想させ、クリスマスはそれを踏み越え死んでいく。ここでの死=向こう側は顔のない(作中で名前が与えられない)黒人たちとも結びついている。黒人であることはそれほどの罪深さをもっているのだ。一方のハイタワー牧師は生死を司る番人である。クリスマスに死に場所を提供し、また、リーナからは赤子を引っ張り出してやる。

 

南部の伝統と理想の周辺で異端者がひしめき、いつでも崩壊しそうな脆い社会(実際、この約30年後には「南部の伝統様式(the southern way of life)」は境界の向こう側に住む黒人によって崩された)をすんでのところで支えるのは、なんといっても南部女性の逞しさと優しさだろう。物語冒頭に頭が弱そうな印象をもつリーナでさえ、後半になると全てを包み込む母性的な強さを見せ始め、読者は物語に登場する女性皆が、同じように力強いイメージで描かれていることに気づく(それに比べ、男はなんと弱く愚かなのだろう)。

 

ある意味では、この物語は南部白人社会の見取り図である。この小説を読み、改めて思うのはアメリカ南部の手強さである。南部こそアメリカのエッセンスが詰まっている、そう感じさせる小説だ。

 

最後に、翻訳について、岩波文庫の諏訪部訳(新訳)と新潮文庫加島祥造訳(旧訳)を比べると、全体的に前者の方が読みやすかった。しかし、ところどころ分かりにくい部分もあり、それは原文自体の独特な表現による。今回初めて分かったが、加島訳ではそこらへんを読みやすい形で書き直している。加島訳は今でも古びていない名訳と言えるが、諏訪部浩一先生の信頼できる解説と丁寧な注解、新訳らしい読みやすい日本語を考えると、岩波文庫が今後のスタンダードになっていくのではないか。

八月の光(上) (岩波文庫)

八月の光(上) (岩波文庫)

八月の光(下) (岩波文庫)

八月の光(下) (岩波文庫)

斎藤眞『アメリカとは何か』(平凡社ライブラリー)

今回、取り上げるのはアメリカ革命史研究の大家、斎藤眞(1921-2008年)の著書である。戦後日本のアメリカ史研究を牽引した彼の名前は、アメリカ史をかじった読者なら一度は聞いたことがあるだろう。この本は、前々から多くの先生が薦めていてマークしていたのだが、運良くブックオフで買うことが出来た。

 

斎藤眞の著書でごんぽりが最初に読んだのは『アメリカ政治外交史 第二版』(東京大学出版会)だった。学生用テキストとして版を重ねていたのだが、確かに所どころ記述の古さは否めなかった。それでも各時代の要点を的確に捌きながら、著者の立場を要領よく盛り込んだ叙述は、通史にも関わらず最後まで面白く読めた印象がある。脚注にも重要というか、痒いところに手が届く説明が散りばめられ、卒論執筆時に意外と役立った。「斎藤史学」と呼んでも憚られない内容だろう。

 

さて、この『アメリカとは何か』は、9つの小論文ないしエッセイと1つの講演録からなり、内容も独立革命から「明白な運命」、反主知主義ニクソン大統領の辞任まで多義にわたる。どれも研究論文というより、実証性を残しながらも、ときにそれに囚われることなく、自由に論を展開したエッセイばかりである。読みやすく面白い。なにより各章に通底するのは、個別の事象を長い「アメリカ史の文脈」に位置づける姿勢である。章によっては少し大げさな気もしなくはなかったが、逆にアメリカの理念(筆者の言う「自由と統合」)を個々の例を引き合いに出しながら論じたという見方もできる。

 

筆者の専門と論文の時代性を鑑みれば、面白いのは建国・膨張期を論じた前半部分である。巧みな論の展開はしばしば読み手の予想の裏をかきながら、最後は上手く収束させていく。しかし、何か立派な結論を提示するのではなく、適度な議論のほつれを残すことで読み手にさらなる興味と思考を促す。

 

後半の章は、「アメリカ史の文脈」に位置付けるという方法論は分かるものの、少し大雑把で大袈裟な感じがあるかもしれない。しかし、歴史に学び、歴史を使う事こそ我々が歴史書を読む理由だとすれば、このように大局的見地に立ちながら、事象一つひとつの「歴史的意味」を大胆に提示するのは、歴史学本来の役割ではないだろうか。

 

そう考えながらこの本を読み返した時、まさにこの本に、いや斎藤史学に魅了された自分がいた。『政治外交史』を読んだ時に感じた、あの知的興奮を思い出さずにはいられなかった。
アメリカとは何か (平凡社ライブラリー (89))

アメリカとは何か (平凡社ライブラリー (89))

福井憲彦『近代ヨーロッパ史 世界を変えた19世紀』(ちくま学芸文庫)

今回、取り上げるのは福井憲彦著『近代ヨーロッパ史 世界を変えた19世紀』である。もともと放送大学用のテキストらしく、近代ヨーロッパの歴史が初学者にも分かりやすく書かれている。高校世界史で学ぶ知識を少し詳しくした程度で、教科書的な記述も目立つし、人によっては物足りないかもしれない。ただ、近代ヨーロッパ史の特徴をサクッと振り返るには都合の良い本だと思う。

副題には「19世紀」と書かれているが、この本の射程は16世紀の大航海時代までさかのぼる。約400年、多くの事件が続いたこの時代を、一つひとつ掘り下げていくのは容易かもしれないが、ではそれらを大局的に振り返ろうとすると案外言葉に詰まってしまう。その意味で、フランス史研究で有名な著者が250ページで振り返ってくれる講義は、手軽で魅力的である。

レコンキスタ後のポルトガルに始まった大航海時代は、スペイン、オランダ、イギリスと続き、現代的なグローバルな世界を形作いっていく。この時代、ヨーロッパ文明を世界に広げていきながら、大西洋革命、産業革命を経験し政治・経済両面で革新的な発展が見られた。もちろん、その一方でアジア・アフリカに対する暴力的支配や、ヨーロッパ内部での格差、そしてなによりもナショナリズム帝国主義へと変容していく結果起こった世界大戦など、歴史の負の部分も見逃すことはできない。著者はそのような「近代ヨーロッパの光と陰」をしっかりと捉えることを強調する。

それが強調されるのも、著者も言うように、近代ヨーロッパは長い人類史の中でも、中世・近世からの「革命的」変化を遂げ、その歴史的特徴(成果)が多くの点で現代に引き継がれているからである。それは社会制度の面だけでなく、個々人の価値観や自意識にまで深く根を下ろしている。どれほど過去に無自覚であっても、私たちが良くも悪くも歴史的存在であることは否定できない。私たちは、私たち自身を深く知るために歴史を学ばなければならないのだと思う。

近代ヨーロッパ史 (ちくま学芸文庫)

近代ヨーロッパ史 (ちくま学芸文庫)

「あの夕陽」『フォークナー短編集』(フォークナー)

今回は「あの夕陽」という短編の感想を書きたい。この作品で登場するのは、あの『響きと怒り』でお馴染みのコンプソン家で、時系列としてはその前、子どもたちがまだ幼い頃の話である。それゆえ、短編の中でも知名度は高い。それにしても『フォークナー短編集』に収録されている短編は、どれも非常に読み応えがある。本を開くたびに熟読を促す完成度の高さは数ある短編集の中でも頭一つ抜いている。

「あの夕陽」は、黒人の洗濯女ナンシーが夫ジーズアスの殺意に震える様子を、コンプソン家長男で、当時9歳のクウェンティンの眼から描く話だ。このナンシーという女は貞操観念がなく、夫がいるにも関わらず日頃から白人男性に体を売り、あげくに夫とは別の子を妊娠してしまう。しかもそれを隠そうとする様子もない。

一方、夫ジーズアスも妻同様、素行が悪かったらしい。コンプソン家の子どもたちは、父親から彼に近づかないように命じられていた。父はその理由を子どもたちに教えない。その少し後、彼は街から姿を消すが、大人たちの会話とナンシーの妊娠を合わせて考えれば、おそらく彼女を孕ました白人男を剃刀で切りつけ、警察に追われたのだろう。しかし、彼はナンシーを恨みながら街のどこかに隠れ、ナンシーの家に脅迫物を置いたり、彼女が泊まるコンプソン邸に忍び込んだりして、その存在を暗示させる。

結局、ジーズアスは彼女に復讐したのだろうか。それとも彼の気配自体、ナンシーの「根拠のない」妄想だったのだろうか。ここで気になるのは、9歳のクウェンティンが語り手となるエピソードは、その時系列がジーズアスに近づいて良いかどうかを基準に整理されている点だ。物語冒頭、「ジーズアスとかかわりあってはいけないと父が私たちにきつく命じていたからである」(91-92)という一文とともに、ナンシーを家に呼びつけに行ったことを回想する。そして、ナンシーが拘置所で自殺未遂するエピソードの後(ここは9歳クウェンティンが直接見たものではない)、クウェンティンがナンシーの妊娠を初めて知った記憶が描かれる。このときも「まだ父がジーズアスにたいして、私たちの家に近よらないように命じる前の話だ」(94)という文を挟む。そして、「(前略)ジーズアスがいなくなっているのに気がついた、とナンシーは私たちに話してくれたのだった」(97)に続き、以後、最後まで時系列に沿った形となる。

この点に注目すると、クウェンティンが15年前を回想するという物語の骨格は、なによりもジーズアスの行動にあり、影の主役として一定の存在感を示している。別の言い方をすれば、一見ナンシーの恐怖を思い出すようにみえて、実は、この物語はジーズアスに関するものなのだ。実際に会ったことがほとんどないがゆえに、その男の記憶をいくつもあるナンシーとの思い出の一部の中に見出さざるを得ないのである。そして、15年後になっても鮮明に思い出すのは(語られなければならないのは)、彼がその後、何か大きな事件をしでかしたからにほかならない。

であるならば、ナンシーの恐怖は突如として現実味をおびるどころか、絶望感さえ呼び起こす。後に殺されるだろうナンシーの事件は、白人の黒人に対する無理解と関心の薄さ全体を象徴していると言えるが、5歳ジェイソンの「僕は黒人じゃないよ」という口癖が無垢ゆえにより一層響くのである。物語の最後、ジェイソンを肩車しながら仲良く帰っていく白人家族と取り残され不貞操の処刑を待つ黒人女との対比は、何も出来ない読者をも絶望へと導く。生まれた時からこのような待遇を味わう心配のない、絶対的な境界としての人種、それこそジム・クロウのアメリカ南部に生きるということだったのかもしれない。

「納屋は燃える」『フォークナー短編集』(フォークナー)

10月19日、岩波文庫からウィリアム・フォークナー『八月の光』の新訳が出るとのことだ。これまで、この作品の邦訳は新潮文庫加島祥造訳であった。訳もそれほど悪くはなかったし、何より一冊になっていたのは読みやすく嬉しかった(岩波の新訳は上・下二冊)。

 

ここ10年、岩波書店はフォークナーの新訳を世に出し続けている。2007年の『響きと怒り』、2011年の『アブサロム!アブサロム!』に引き続き、今回の出版となる。先の二作品は読みやすく、また注釈も丁寧だったので、今回も期待が大きい。改めて、岩波版の訳者とその丁寧な注釈群を眺めると、フォークナーの難解さがよく分かる。訳者はどなたもフォークナーを専門とする研究者であり、職業翻訳家が簡単に訳せられるものでもないのだろう。少なくともこれまでの「研究成果」をなんとか盛り込み、作品が持つポテンシャルを一般読者に示そうと奮闘したのが分かるテキストだ。

 

せっかくなので、そのフォークナーを選んでみた。作品は、新潮文庫『フォークナー短編集』から「納屋は燃える」という有名な作品である。

 

物語は、プア・ホワイトで放火癖の父を持つ10歳の少年サーティーが、屈折した父との経験を通して大人への成長を垣間見せる、というものだ。サーティーの父は、豚の脱走に端を発する放火容疑で土地を追われ、新しい場所でも雇い主の家の絨毯を汚し、弁償させられそうになると、また相手宅の納屋を放火する。この家族はこれまで、そのようなことを繰り返しながら、12回も引越ししてきたらしい。

 

訳者解説には、この少年が「自分の受け継いだ血とモラルのあいだにはさまって、血みどろの苦悩を舐める」とあるが、この解釈は果たして適切だろうか。一般的にこの作品の主題は、「血の忠誠か、法の忠誠か」とか、「子どもは、たとえ親が教えなくても正義を学び取る」とかだろう。しかし、個人的にはそのようなサーティー像はどうも納得がいかないのである。なぜなら、この家庭に漂うのは、父親の権力と暴力、それによる「恐怖と悲嘆」(269)である。妻も夫に逆らえない家庭環境で躾(犯罪の手伝い)をされ、19世紀末の南部プア・ホワイトゆえに学校教育とも縁がない。そのような10歳の子どもに、現代的な「モラル」がどれだけ育まれるのだろか。むしろ、犯罪に躊躇いなく協力するサーティーの長男のような人物こそ、物語として必然的ではないか。

 

そのような前提で作品を読むと、「敵」(246)/「味方」(255)という、もっと素朴な人間関係がサーティーの周りで浮かび上がる。不安定な環境にいる子どもが、自らの保護を得るための防衛手段であり、また、サートリス家の一人として、「じぶんの血縁のものに忠実にする」(255)という意味に対する彼なりの理解である。

 

サーティーが父に教えられるのは、一族の血の宿命に従い「暴虐、蛮行、激情」(274)を尽くしながら、一方では黒人を蔑み、また一方では中流白人に妬む生き方だ。南北戦争時代、「古いヨーロッパ的な意味での一兵卒」(289)として、南北両軍に与しなかった父はまさにそれを体現する。しかし、そのような生き方は突き詰めると破滅的である。度重なる社会的疎外感(引越し、道端の罵り)は、次第にサーティーを絶望へと追いやっていく。

 

そのような中で出会ったド・スペイン邸は、彼が悲嘆に覆われたこの生活から逃れ、安らで安定した生活を送ること(「平和と歓喜」(258))の象徴である。

 

ここの人はお父つぁんからやられることはないだろう。このような平和と威厳の一部分によって生活している人たちには、お父つぁんの手も届かないんだ。お父つぁんはこの人たちにとっては、ブンブンうなる黄蜂ぐらいのものでしかないんだ。ちくりと刺してちょっとのあいだ痛むが、それだけのものだ、この平和と威厳の神秘的な力は、この家に属する納屋や厩や穀物倉を、お父つぁんがたくらむかもしれないようなちっぽけな火では燃えないようにしてしまうのだ(258)

つまり、この建物は家族の破滅性とは全く離れたところに位置する、彼にとっての最後の希望、憧れだ。これこそが社会・経済的に取り残された家族の暮らしを救い出せる唯一の希望なのである。「絨毯事件」のクライマックスで、サーティーが放火の準備に協力しながらも、同時に少佐のもとへ知らせに走るのは、決して良心とかモラルとかに動かされているのではない。この文脈で考えれば、むしろ彼にとっての希望の象徴を守りたいのだ。憧れである平和を彼自身が守るという決心が彼を邸宅へ導いたのだ。

 

この行いは必然的に父への反逆である。しかし、そうやって彼は屈折した親子関係を乗り越え、大人への一歩を踏み出すことになる。敵/味方という関係がここにきて否定される。このように読むと、絶望と平和とのあいだで揺れ動いた少年の成長の物語として読めるのではないか。

「レキシントンの幽霊」『レキシントンの幽霊』(村上春樹)

最近『レキシントンの幽霊』を再読している。前回の「沈黙」に続き、今回は表題作の感想を書こうと思う。  

 

レキシントンの幽霊」は、村上ワールドで最も重要なキーワードの一つ、「異界」(「あの世」、「向こう側の世界」)が物語のメインにあり、ある意味、「らしい」短編と言える。『羊をめぐる冒険』、『ねじまき鳥クロニクル』などを持ち出すまでもなく、村上ワールドでは、主人公が現実でない何かに迷い込む。その異界は、しばしば超現実的な経験(非現実の逆である)を、現実世界以上に訴えかける。

 

本作は場面場面でいくつか解釈の分かれ道があり、どの時点でどこに進むかによって最終目的地も大きく変わる。今から述べる解釈は、自分に死が近いことを感じ取ったケイシーが、ジェレミーの代わりに僕を「異界」に誘おうと試み、失敗した、というものである。

 

主人公の僕は、ボストン郊外の屋敷に住み膨大なジャズ・レコードのコレクションを所有するケイシーという男と友人になる。彼は調律師のジェレミーと愛犬マイルズと一緒にボストン郊外の閑静な屋敷に暮らしていた。ある日、彼から、レコードを好きなだけ聴いていいからと、1週間の留守番とマイルズの世話を頼まれた。ジェレミーも実家の母親の具合が悪く、家を離れていたからだ。

 

僕は、その屋敷に泊まった最初の晩、階下の居間でパーティをしているような音で目を覚ます。しかし、その非現実な感覚から、それが幽霊のパーティであることに気が付く。彼は、恐怖のあまり、居間の扉を開けず自室に戻り、その晩をやり過ごした。幸運にも、幽霊が出たのはその晩だけで、1週間後、ケイシーに無事、家を明け渡す。ここでの主人公の心霊体験は、状況的に「夢オチ」である。マイルズの姿が見えなかったのは、それが夢であることをを示唆しているのかもしれない。ただ、ケイシーの忠犬マイルズも幽霊と共犯であるならば、「ひどく寂しがりや」で、寝るとき以外は「必ず誰かのそばにい」る振りをして、実は主人公を始終監視していたということも考えられる。主人公が幽霊と「対面」した際、マイルズは役目でないから見えなかったのではないか。

 

そして、ケイシーが家に着いた時の描写は決定的である。

「どうだ、留守の間に何かかわったことはなかった?」ケイシーは玄関先でまず僕にそう尋ねた。

 

彼はこの屋敷に幽霊が出ることを以前から知っていた。では幽霊とどのような関係にあったかというと、それから半年後、主人公がケイシーと再会した際に判明する。ケイシーは、ここで、母親が亡くなったときに父親が、父親が亡くなったときに彼自身が、数週間眠り続けたというエピソードを話し始める。眠るという行為、これはあの幽霊屋敷においては、幽霊との接点が夢の中であることからして、「下界」と「異界」を繋ぐ手段だ。ゆえに、愛する人(それが夫婦愛であれ親子愛であれ)が亡くなった時に眠り続けるのは、故人への最後のお別れなのではないだろうか。その間、眠っている人は「予備的な死者」(38)となる。愛する人のために(一時的にであれ)死ぬことは、もはや究極の愛だが、一方、それが同時に先祖との顔合わせでなのであれば、あのパーティのようにとても賑やかで楽しいものなのかもしれない。作中では幽霊や死は、決して悲観的には描かれていない。村上の「解題」によれば、この地方の幽霊はむしろ「屋敷の資産」であり丁重に扱われる存在であるからだ。確かに作中に登場する幽霊は、主人公に実害を与えたわけでもなく、現れたのも一度きりだった。また、屋敷の様子も決して陰鬱で恐怖感をいたずらに感じさせる雰囲気ではなかった。ある考察では、ジャズ・レコードのコレクションが屋敷のレコード(記録)を暗示していて、屋敷はケイシー一族の先祖ではないかという意見があった。レコードが何を意味するにせよ、幽霊は屋敷と深い関わりあるようだ。

 

いずれにせよ、ケイシーは父親の死以来、「予備的な死者」として、自分が死ねば眠り続けてくれるような「恋人」を探していた。しかし、ジェレミーがいなくなった今、もはやその願いは叶わなくなってしまった。確かに、ケイシーとジェレミーとの関係は単なる同居人以上であることを示唆している。病気のように老け込んでいたケイシーは、ジェレミーの母親が亡くなり、ジェレミーがそのショックで「ろくでもない星座の話」しかしなくなったことを告げる。もう彼はこっちに帰ってこないというかもしれないという話を聞いた主人公は、こう言う。

 

「気の毒だね(I'm really sorry)」と僕は言った。でも誰に対してそう言っているのか、自分でもよくわからなかった。

 

ここで、主人公が「わからなかった」のは、母親を亡くしたジェレミーだけでなく、ジェレミーとの同居生活が終を告げたケイシーに対しても同情していたからだ。要するに、主人公も二人の同性愛関係に薄々気がついていたのだが、プライベートな部分ゆえにあえて触れず、「気の毒」だと言ったのだ。確かに、アメリカでは、あの名作テレビドラマ『フルハウス』で男性三人の共同生活が、同性愛を匂わせたのと同じように、同性同士の生活は同性愛を匂わせる。であるならば、ケネシーが急に老け込んだのも、死が近いだけでなく、愛する人を失ったことも大きいのだろう。

 

主人公は屋敷の夢の中で、居間に続く扉を開けなかったことでなんとか逃げ延びた。愛は時までも越える、としばしば言うが、まさしくあの屋敷では愛する人のために自らも死者に近づくことで、永遠の愛を手に入れることができるのかもしれない。しかし、そのようなその愛は一方向である。自分が愛するのと同じように、他の誰かからも愛されたいと願う気持ちが、人々をあのホールに誘い込むのである。

 

眠りの世界が僕にとってのほんとうの世界で、現実の世界はむなしい仮初めの世界に過ぎなかった。それは色彩を欠いた浅薄の世界だった。そんな世界でこれ以上生きていたくなんかないとさえ思った。(37)

 

 様々な歴史が沈殿する閑静な屋敷の中では過去と現在が混在する。そのような世界で愛する人が死んだとき、その人自身の時も止まる。いや、止まっているように見えても、向こう側の世界としてパラレルに動きつづけている。その時間は永遠であり、また同時に一瞬でもある。そんな還元できない時間軸の中で生者は死者と共存するのである。

「沈黙」『レキシントンの幽霊』(村上春樹)

レキシントンの幽霊』に収録されている「沈黙」という作品を今回は取り上げたい。この作品はなんでも中学の集団読書用テキストに掲載されているようで、意外と知名度は高い。

 

正直言うと、この短編は村上春樹のいつもの作品と違い、謎解きや不思議な要素があまりなく、どのように書くか迷った。他の書評を見てみると、学校教育や友人関係、いじめのような視点から書かれていることが多かったし、それは確かに正攻法だろう。また、一部の読者は語り手である大沢さんの言動に不信感を持ち、彼が言う「青木のような人間の言うことを無批判に受け入れる」ということを、彼自身と物語全体に当てはめようとしていた。いわゆる「信用できない語り手」の手法であり、確かにと思ってしまった。

 

集団読書用のテキストらしく、大沢さんの視点で語られるゆえに、客観的な事実が最後まで見えないのが、この物語の面白いところだ。大沢さんの語りから伺えるのは、青木に対する並々ならぬ憎しみである。丁寧に読んでいくと、その憎しみにはあまり根拠がないことがわかる。クラスの人気者である彼への生理的な拒否感、殴ってしまったことに対する罪悪感の欠如、クラスメイトの自殺に対する素っ気無さ等、あまりにも自分の世界に閉じこもってしまい、視野の狭さが気にかかってしまう。

 

ただ、そのような偏った視野は誰にでもあるだろうし、青木もその点は同じだろう。しかし、何より怖いのが、彼の青木に対する憎しみがその周りの人々にまで広がってしまった点である。もちろんそれは教師に裏切られたという思いが発端にあるだろうし、彼をただ責めるものでもない。しかし、大沢さんは発言できない状況に陥っていたわけでは無かった、つまり、自殺した松本と違いそれは「声なき声」ではなく、自身のプライドが選択肢を狭め続けた結果である。少なくとも「青木に踊らされている連中」にとっても幾ばくかフェアではないように思う。

 

ただ、仮に松本と大沢さんに決定的な違いがあるにせよ、「沈黙」せざるを得ない状況に陥ったとき、負の感情は拡大していく。大沢さんの悪夢に出る顔のない人々は、実は彼の自己投影に過ぎない。現代社会においては自己完結した世界というものはフィクションであるからして、自らコミュニケーションを放棄した者が、その周りの人々の顔を描けないのは当然である。大切なことはどのようにして他人の顔を自ら描いていくか、ということではないだろうか。

 

 

 

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)