ゴンポリズム

読むこと-観ること-考えること

アニメ『STEINS;GATE』(シュタインズ・ゲート)

 久しぶりに『STEINS;GATE』(シュタインズ・ゲート)というアニメを観た。元々この作品は2009年に発売されたXbox360版ゲームソフトが原作らしく、2011年にアニメ化された。当時、同時期の『魔法少女まどか☆マギカ』とともにスマッシュヒットとなった有名なアニメだ。今年4月からはスピンオフアニメの『STEINS;GATE 0』(シュタインズ・ゲートゼロ)が放映されているらしい。

 

 この作品、どのような話かというと、中二病全開の主人公(岡部倫太郎)が、友人のダルとともに電子レンジと携帯を組み合わせてみたら、偶然タイムマシンのような現象を発見してしまい、中二病的な陰謀に本当に巻き込まれてしまう、という話だ。ヒロインの天才少女(紅莉栖)とともに、この奇妙な現象を解明していく中で、過去にメールが送れること、そしてそれを応用すれば使用者が記憶を過去に送るという形で、過去へタイムリープできることがわかる。

 

 しかし、ダルがSERN(欧州原子核研究機構)にハッキングしたことが原因で、この組織が秘密裏に研究していたタイムマシン開発の成果を知ってしまい、組織から命を狙われる。この時間軸(α世界線)では最終的に幼馴染のまゆりが死んでしまうことがわかると、岡部達が実験のため無邪気に行った過去改変を一つずつ元に戻し、危険なα世界線からもともといたβ世界線を目指す。しかし、そのβ世界線では今度は紅莉栖が死んでしまうことが判明する。最終話近く、β世界線で打ちひしがれていると、この世界線上にいる未来の岡部の助けで鈴羽(ダルの娘)がタイムマシンを使いやって来る。そして、α世界線でもβ世界線でもない第三の選択、シュタインズ・ゲートへの道のりが示され、岡部はこのシュタインズ・ゲートを目指し、最終話で鮮やかな過去改変をやってみせる。

 

 大雑把に要約してみたが、アニメにも関わらず、かなり綿密な設定のハードSFだ。全24話ある物語中、何度も繰り返しタイムリープしながら前半の様々な伏線を回収していく。一度見ただけでは細部まで理解しにくいが、大きな時間軸は3本と少なく、主人公の目的も明確なので、あまり深く考えずに物語を楽しむことができる。

 

 秋葉原が舞台なだけあってこの作品はオタク要素に溢れている。例えば、ダルという人物は、太っていてパソコン好きでネット用語を多用する、という典型的なオタクのイメージを体現している。ある意味、中二病の岡部とともに「痛い」人を特徴的に描いてるわけだが、それはあくまでネタであり、同時にこういった人々の願望も描くことで自己批判を免れてもいる。岡部には幼馴染のまゆりがいつもそばにいるだけでなく、α世界線では女子であるるかやメイド喫茶で働くフェイリスに片思いされ、最後には紅莉栖と結ばれる。オタクのダルも将来結婚できることがわかる。また、中二病の岡部は、α世界線の将来、ディストピアとなった世界でレジスタンスを組織し、ダルも持ち前の知識でタイムマシンを開発する。彼らの趣味嗜好が世界を救うために昇華されるのだ。

 

 それでも主人公の岡部は、α・β世界線からシュタインズ・ゲートに移動し、最後には中二病を卒業する。また、β世界線の記憶を持つ岡部と話したα世界線の登場人物たちは、時間改変前の記憶をぼんやりながら思い出し、この世界線が正しくないことを悟る。有り得たかもしれない世界線への憧れを感じながらも、大切な人を救うためにはトゥルーエンド(正しい世界線)へ向かうことが不可欠であり、あくまで物語は一本道なのだ。

 

 そのように観ると、この物語は19歳の岡部が経験する一夏の出来事として、十代最後の淡い思い出を感じさせる(第22話)。そして、その残酷な経験にも関わらず、いや、むしろ残酷であればあるほど、α・β世界線として行き着く袋小路からの脱出=脱皮は、モラトリアム的十代からの卒業と大人への通過儀礼として、彼の前に立ちはだかる。ここに、「十代最後のセカイ系」と言えるような側面を、物語から見いだせるのではないだろうか。

 

 東浩紀の有名な定義によれば、セカイ系とは、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」だ。そして、この定義はタイムリープ作品と非常に親和性が高い。当たり前だが、タイムリープとは世界改変(危機)の一つであり、あとは「具体的な中間項」に乏しい十代の主人公と、その彼が強く影響を受けるヒロインを登場させれば簡単に出来上がるからだ。

 

 ちなみに、岡部が設定として持つ中二病も、自分が世界の陰謀と大した根拠(具体的な中間項)もなく関係しているという妄想を意味する。前半では陰謀が実際に起きるための、後半ではモラトリアム卒業の指標として、重要な伏線になっている。中二病というネタを上手く利用した、よく考えられた設定である。

 

 そして、先述した、物語が辿る一本道は学校や社会という中間項にコミットするためではなく、あくまで岡部の内面的な自己成長へと繋がっている。彼はα世界線で世界がディストピアになったり、β世界線第三次世界大戦がおこり57億人が犠牲になったりすることを重視しない。あくまでも、まゆりと紅莉栖を救うために世界線を変えるのだ。

 

 だが、岡部がそういった閉塞から脱出するためには、相応の痛みを引き受ける必要があった。というのも、タイムリープを繰り返し、何十回とまゆりの死を目撃するうちに、彼は他人の死に鈍感になっていくからだ。19話では、その世界線における彼女の死の「正確なデッドライン」を知るため、あえて彼女を見殺しにしてみせる。まゆりの最後に立ち会った紅莉栖の震え声を聞きながら、冷静に時計を確認する場面は印象的だ。

 

 そのようなタイムリープの弊害を乗り越えたのが、最終話、シュタインズ・ゲートに移るための過去改変作業だった。岡部は、紅莉栖の死を偽装するために自らナイフで刺され、その血を利用する。自身の体液を彼女にかける行為を新たな世界線=人々を創造するための隠喩表現とみなすのは、決して深読みではないだろう。この儀式によって、タイムリープを繰り返した神のような存在から生身の人間に生まれ変わり、彼は再び生の感覚を取り戻すのである。

 

 このように作品を眺めたとき、ここにセカイ系に対する批判の応答を読み取ることができるのではないだろうか。それは、具体的な中間項なしに人は成長し得るか、という問題である。『エヴァンゲリオン』のように逃げることなく、『ぼくらの』のように殉死に終わることなく、もちろん『涼宮ハルヒ』のように学校に適応することなく、岡部は生きることへの確かな手応えを掴んでみせたのではないだろうか。言い換えれば、SFやオタク世界というサブカルチャーにどっぷり浸かった人々を、彼らの嗜好を最大限に利用し、同時に彼らの自尊心を傷つけることなく、いかに彼らを目覚めさせるか、ということを問うていたように思う。中二病やタイムマシンが好きなら一度存分に体験してみれば良い、そして、君は最後に何を得ただろうか。そういったメッセージが『シュタゲ』からは読み取れるのだ。

 

 

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』

 先日、オウム真理教幹部の死刑が執行された。あの出来事で僕が感じたのは、死刑がリアルタイムで進んでいく異常なまでのショー的演出だけでなく、複雑な喪失感だった。というのも、1990年前後に生まれた人々にとってオウム真理教という事件は独特のニュアンスを持っているからだ。私たちの世代は、オウム真理教がメディアに(色物扱いながらも)登場し、国選に打って出た90年代前半から、地下鉄サリン事件が起きた95年までをほとんど知らない。しかし、物心つき始めた頃とちょうど時を同じくして教団が解体し、メディア全体にわたる凄まじいバッシングを観てきた。幼心にも一連の事件が日本全体に与えた影響を感じていたように思う。麻原は私たちにとってその初めから死刑囚であって、その彼がついにいなくなる日が来ることなど想像さえできなかった。

 

 しかし、誤解してほしくないのは、その喪失感は彼らへの関心というより、彼らに象徴される時代への関心ゆえである。90年代初めの冷戦の終結バブル崩壊、それによる「大きな物語」の終焉という、現代まで続く政治、経済、社会的な状況の負の側面を一身に象徴したのが彼らであり、1995年の地下鉄サリン事件だった。同年に起きた阪神淡路大震災と合わせて、この年が現代日本で決定的な意味を持つことは多くの人々に指摘されている。ある意味、ゼロ年代テン年代は「1995年」を中心とする様々な問題をどう解決するか、ということを問われた、後始末的な時代だったと思う。

 

 そして、そのような後始末を要求される世代を描いた作品が2011年のアニメ『輪るピングドラム』だろう。オウム真理教地下鉄サリン事件をモデルにして、1995年に地下鉄爆破事件を起こしたテロ組織幹部の子ども達が、その後、親の罪を自分たちの原罪としてどう引き受けるかを描いている。過剰で難解な隠喩的表現が主題を表現する上で成功しているかどうかは分からないが、少女アニメのようなカラフルで可愛らしい色使いと世界観によってコーティングされた物語には、視聴者層への演出という意味以上に、新興宗教に対するタブーの根深さを感じずにはいられない。結局、最終話では世界線を変更することで(生まれ変わることで)問題を解決する展開も、袋小路に陥った現代社会を象徴している。そのような現状を考える上でも、この作品はもっと注目されてしかるべきだと思うが、現代日本の純文学とサブカルチャーとの断絶からして難しいかもしれない。

 

 話が長くなったが、そのような現代のサブカルチャー作品(特にラノベ美少女ゲーム)をどう評価するか、という方法論を提示したのが東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』だ。東らしく沢山の概念装置を前半で提示していき、独自の議論を進めていく。詳しく紹介はしないが、例えば、既存の純文学を創作・批評する視点である「自然主義的リアリズム」に対比され、サブカルチャーの作品の文学性を測る主題的な視点として「まんが・アニメ的リアリズム」と「ゲーム的リアリズム」を提示する(前者は大塚英志の議論の紹介、補強である)。また、読者や作品、作者との市場や読解での関係を「想像力の環境」と呼び、それを踏まえた「環境分析」という構造的な視点も提示する。

 

 前著の『動物化するポストモダン』と合わせて、サブカルチャーの作品を理解する上で重要な地平を切り開いたように思う。しかし、決して疑問がないわけでもない。例えば本の題名にもなっている「ゲーム的リアリズム」という視点は、前半に最も力点が置かれる「まんが・アニメ的リアリズム」の紹介の後、付け足しのような形で提示される。題名にするほどの比重は無く、さらに言えばこの概念は、大塚の議論を踏まえることなく前著の「データベース消費」から容易に導き出されるように思う。また、その方法論を実際に利用した『All You Need Is Kill』の解釈もタイムループものの作品ではどこか聞いたことのある内容で、新たな概念装置を提示するほどの奇抜さはない。

 

 また、「自然主義的リアリズム」という定義も疑問である。東はサブカルチャー作品と既存の純文学作品との対比を強調するあまり、非常に素朴な意味でこの言葉を使うが、純文学や文学批評はもっと多様な文学理論を既に持っている。例えば、近代文学の特徴の一つとされる言葉と現実との「透明」な関係に関して、言葉の難解さを用いて、両者の間に意図的な障害を作り上げたロシア・フォルマリズムを思い出す人は多いだろう。また、そこから発展した、イェール学派を代表とする構造主義的読解もメタ物語性や(行為遂行的読解という意味で)環境分析の視点を持っている(東の言う「環境」は具体的な市場だけでなく、読者や作者、作品との関係そのものを空間的に例える場合も多い)。

 

 東の言う「ポストモダン」という言葉は大きな物語の終焉とそれによる何らかの影響という以上のことを意味しないが、この言葉を使うのであれば(もしく東の学問的背景からすれば)、柄谷行人の議論を援用しサブカルチャーと明治期の文学をそれこそ「タイムスリップ」的に繋げるのではなく、こうした構造主義的批評との結節点を踏まえた方が説得力がある。

 

 本書の批評を「メタ批評」すると、現代思想との学問的繋がりを軽視したり、純文学との断絶(ディスコミュニケーション)を強調する自閉的な態度は、オタクに関する研究に関わらず、オタク的な特徴が既に含まれているように思う。それでもサブカルチャーをより理論的に知るには興味深い本であることは間違いない。

 

 

 

ある友人の死について

 今日、僕が書くのはとても個人的な内容、ある友人の死に関する話だ。

 

 大学を卒業してこの春で2年が経ち、学生時代の記憶も次第にぼんやりしてきた。最近、高校・大学時代をふと思い出すことがあって、ようやくあの頃を冷静に振り返ることができるようになった。同時に、自分のなかでその時期を改めて総括し、一区切りつけたくもなった。そこで一つの試みとして、村上春樹の『ノルウェイの森』を手に取り、ここ数日読みふけっていた。

 

 しかし、小説を読み進めていくうちに、この6年間、僕の心の中にずっと残っていた言葉にし難いしこりのようなものが次第に大きくなっていき、目を背けていたある記憶と思いを整理せざるを得なくなった。これから綴る内容は、僕に語る資格があるのかという気持ちもあって、言葉にするのをずっと躊躇ってきたことだ。それが、友人の自殺をめぐる話だ。

 

 大学1年の5月、同じ大学に進んだ高校時代の友人から同級生(以下、Kと呼ぶ)が自殺したことを聞いた。Kとは高校2・3年の2年間、同じクラスだった。その頃の僕はろくに高校に行かず、自宅やマックで本を読み耽っていてほとんど留年するところだったので、クラスメイトからもちょっと変わった目で見られていたと思う。

 

 それでも僕が通っていた高校は全国でも名の知れた進学校で、校風もとても自由だった。何よりクラスメイトのほとんどが、自分とは違う種類の人をそっとしておいてくれるだけの大人びた優しさと雰囲気の良さを持っていた。それゆえ、いわゆる「スクールカースト」と呼ばれる類の問題は、ほとんど存在する余地さえ無かったと思う。

 

 そんな優しさと活気と幾分のユーモアに満ちた雰囲気の場所にKがいた。彼は上品そうな整った顔立ちと澄んだ瞳をした好青年だった。例えば、第一印象で女の子の視線を集めることはなくても、間違いなくクラスに一人、二人、隠れたファン(おそらく大人しめの女の子だろう)をもつようなタイプだった。少し真面目すぎるところがあって、時々はっちゃけようとしても最後の一歩が踏み出せない、そしてその気恥ずかしさが見ている方にも伝わってきた。それでも、伝統ある高校の応援団長を務めるほど秘めた熱意を感じさせたし、運動神経も良かった。

 

 フットサルをしていた時の彼の姿は、今でもはっきりと思い出す。ボールを蹴る時の独特のフォーム(両手を身体の横で広げて、重心を高く保ったまま、インサイドに近い形でボールをすくい上げた)は、とてもかっこよかった。そして何より、常に丁寧かつ献身的なプレーを見せてくれて、試合中での自分の役割を本当に良く理解していた。

 

 僕とKとは親友と呼べるような仲では無かったが、時々僕が学校に来れたのも、彼のような生徒がクラスにいたからだ。久しぶりに教室に入ったとき、さりげない無関心さを装いながらも、わずかに微笑んで迎え入れてくれる。そして、ここ最近の授業内容を嫌な顔一つせずに教えてくれる。僕が彼に抜きん出る点は何一つ無かったのに、決して僕の自尊心を傷つけることはしなかった。彼はクラスで人一倍存在感を出す生徒では無かったけれど、むしろそれゆえに、クラスの優しさを体現していた。

 

 それでも、正直に語ると、当時の僕はKに何らかの恩を感じていたわけでは決してなかった。ただ、僕がKに親近感を抱いたのは、彼が時々垣間見せた心の不安定さに、次第に気が付くようになったからだ。その時の僕は、それを上手く表現できなかったが、大人になった今は分かるような気がする。つまり、あるべき姿や感受性、自己認識などが常に心のなかでひしめいていて、その一つひとつを雑に扱いきれない実直さと繊細さが、頭と心でズレをきたしていき、自身の精神を少しずつ傷つけていく、そのような不安定さではないかと思う。

 

 それを十代特有の自意識の問題として片付けるのは容易い。だが、問題は、そういう不安定さを外に発散させることなく、自身の中にひたすら溜め続けていって、自意識を際限なく拡げてしまう人がいるということだ。そして、たとえ十代の問題意識が大人になって和らいだとしても、心の自閉的な癖が変わらなければ、問題は一層深刻さを帯びるに違いない。当時の僕は彼のそういった部分に間違いなく共感していた。何故なら、僕自身も同じ問題を抱えていたからだ。ただ、その本質を理解するだけの表現力と経験を持ち合わせていなかった。

 

 Kは一年間の浪人の後、関東にある国公立大学の医学部に進学し、その一ヶ月後、森の中で発見された。彼が何を引き金に自殺したのかは分からない。さらに言えば、僕がKに共感した点が自殺の背景にあったと言いたいわけでもない。僕が彼と同じ立場なら「勝手に分かった気になるな」と思うだろう。

 

 これまで、彼の死とどう向き合えば良いのか分からなかったのは、僕の中で彼の記憶についての葛藤があったからだと思う。それをあえて説明すればこういうことだ。彼を思い出そうとする。彼を忘れないことが僕に唯一できることだからだ。しかし、自殺した人を思い出すということは、彼を20年生きた人としてでなく、20年目に死んだ人として思い出すということだ。僕の彼の認識は、彼を思い浮かべる瞬間に、彼の生きた重み自体を軽んじてしまいそうになる。ある一方では、彼の最期は彼の魅力に比べれば小さな要素だ、と思いたい気持ちがあり、他方で、なぜ彼は自殺したのか、自殺しなければいけなかったのか、と答えの出ない問いをひたすら繰り返す気持ちがある。そのような混乱に悩みながら、少しずつ彼のことを忘れていってしまう罪悪感がさらに僕を苦しめる。自殺を記憶するとはこういうことだと思う。

 

 僕は間違いなく彼に救われた。僕は高校を卒業できたし、その後の大学生活はそれまでの人生で最も楽しかった。ただ、この6年間、一人で考え事をしていると、時々、知らぬ間にKの事を思い出してきた。僕は彼に後ろめたさを感じているのかもしれない。そして出来ることなら、彼に言いたい。何も心配することはなかったんだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

村上春樹「象の消滅」

 今回読む小説は、またしても村上春樹の作品だ。初期の有名な短編の一つだが、意外にもネット上の書評は少ないように思う。彼のこの時期の作品はメッセージ性の強い荒削りなものが多く、えてしてまとまりすぎた中期以降の短編と比べると、逆に感想は書きやすい。

 

 表題の通り、とある町で象が消滅する物語である。町の郊外にある動物園が経営難で閉園することになり、動物たちは全国各地の動物園に引き取られていく。しかし、老齢の象だけ引き取り手がない。動物園があった土地は高層マンションが建てられる予定で、既に宅地業者に売られてしまっている。この事態に、動物園と業者、町の三者が協定を結ぶことになった。町議会で紛糾しながらも、結果的に像は町有財産となり、象舎の落成式に至る。そして、一年後、象は、唯一心を許した飼育係とともに「消滅」するのである、象につけていた足枷や頑丈な柵を壊すことなく、また、周りに足跡さえなく。結局、何の手がかりもないまま、数ヶ月が経ってしまう。

 

 物語の前半で像が消滅したこれらの経緯が語られるが、後半から場面の雰囲気はガラリと変わる。キッチン用品の営業をする「僕」は女性にこう言う。

 

 「いちばん大事なポイントは統一性なんです」と僕は言った。「どんな素晴らしいデザインのものも、まわりとのバランスが悪ければ死んでしまいます。色の統一、デザインの統一、機能の統一―それが今のキッチンに最も必要なことなんです。(58)

 

 この世界では、どんなモノもまわりとの関係で、つまり、全体の統一性とどう関わっているかによって、その価値が決まってしまう。全てのモノは色、デザイン、機能といった画一的な基準によって判断され、それらは商品になるか(=価格)という、より大きな基準に内包されている。その統一性から外れたモノは、それが固有に持つ唯一性や美しさに関わらず決して評価されることはない。ただ世界から捨象されていくのみだ。

 

 そのような構造的な世界は、表面上は規則正しく動いているように見えるだろう。「波風も立たないし、複雑な問題も起き」ない(60)。しかし、実際は見かけだけ綺麗に取り繕ったハリボテの世界である。僕の言う「便宜的」という言葉は、一時の間に合わせのために処理すること、という意味だが、まさにこのような世界を言い当てている。

 

そう考えたとき、落成式の様子は象徴的だ。町長の演説や小学生の作文、スケッチ・コンテストなど、予定調和で形だけの儀式が淡々と行われる。当の象は、「殆ど身動きひとつせずにそのかなり無意味な―少くとも象にとっては完全に無意味だ―儀式にじっと耐え」るのである。(47)

 

話を二人の会話に戻そう。僕はホテルのカクテル・ラウンジで、象の消滅の話とともに実は僕が象の最後の姿を見た人物であったことと、その時の不思議な光景を打ち明ける。

 

「つまり大きさのバランスだよ。象とその飼育係の体の大きさのつりあいさ。そのつりあいがいつもとは少し違うような気がしたんだ。いつもよりは象と飼育係の体の大きさの差が縮まっているような気がしたんだ」(68)

 

 

「冷やりとした肌あいの別の時間性が流れている」象舎の中では、「二人きりになったときの象と飼育係は、人前にその公的な姿を見せているときよりはずっと親密そうに見え」た(70,66)。おそらく、この奇妙な「大きさのバランス」こそ、二人の関係を最も如実に表すのではないだろうか。というのも、象にとってその体の大きさは希少価値を持つための重要な「ファクター」の一つである。私たちが象を思い浮かべるとき、大きな耳と長い鼻、そしてなにより、あの大きく、ときに畏敬さえ感じさせる図体である(だからこそ、象の飼育にあたって、頑丈な柵が設けられたし、消滅したときには人々は「〈不安な面持ち〉」(53)になる)。

 

しかし、長年付き添ってきた飼育員にとって、この象の特徴は大きさではない。象がまだ小さな頃から世話をしてきた思い出が彼の心を満たしているのであれば、彼にとってむしろその小ささこそ、象のファクターなのかもしれない。そうであれば、あの象舎に流れる「別の時間性」とは、二人の心象風景と言えそうだ。

 

 結局、一連の経過の中で、便宜的な世界を一時的にでも成り立たせる記号としての「象」でしかなかったがゆえに、その本来的な唯一性を取り戻すべく、他の時間軸の中に消えてしまったという解釈をここで提示しておくことにしたい。

 

 

新装版 パン屋再襲撃 (文春文庫)

新装版 パン屋再襲撃 (文春文庫)

 

 

 

カーヴァー「足もとに流れる深い川」

 

 久しぶりにレイモンド・カーヴァーを読む。村上春樹訳『レイモンド・カーヴァー傑作選』はどれもなかなか面白いのだが、訳者自身が「一発で見事レイモンド・カーヴァーの世界の中毒に引きずり込まれることになった」という「足もとに流れる深い川(So Much Water So Much Close To Home)」はやはり出色の作品だろう。 この小説の主題は一言では言い表しにくい。明らかに読み手の共感を誘ういくつかの視点がある。それでも根底にあるのは「人生の変化に対する感受性」とでも言えるものだろう。

 心配そうな妻と苛つく夫の会話で始まる冒頭は、夫が休暇中に発見した遺体が理由だ。夫とその友人は、山中の川原で若い女性の全裸遺体を見つける。しかし、彼らは何事も無いかのように遺体のそばで釣りや酒盛りを楽しむ。しかし、どんなに平然を装っていても遺体に無関心ではいられない。しばらくして、遺体が川に流されないように浅瀬まで引きずり、手首を縛って木の根に繋ぐ。死者に対するあまりにもひどい仕打ちであるのは言うまでもない。そして、帰り際に初めて保安官に連絡し事件が発覚するが、その出来事を妻に話すのも帰宅してすぐではない。その翌朝である。

 夫らの一連の行いに、有り体にいえば妻はドン引きする。しかし、物語を読み進めていくと、彼女の違和感は同じ女性としてのシンパシーや女性をモノ同然に扱う夫への不信感だけでなく、もっと深い部分にあることがわかってくる。

 

 二つのことが明らかだった。 ⑴人々はもう、他人の身に何が起ころうが関係ないと思っている。⑵何が起こってもそこにはもう真の変化というものはないのだ。事件が起こった。それでもスチュアートと私のあいだに変化なんてないだろう。私の言っているのは本当の変化のことだ...(中略)...そしてある日事件が起こる。それは何かを変化させてしまうはずの事件だ。それなのに、まわりを見まわしてみれば、そこには変化の兆しはまるでない。(116-117)  

 

   順風満帆なはずの家庭生活に通底するのは、変化の兆しもなくひたすら老いに近づいていく日常である。夫と結婚したその時から自分の未来は決まってしまった。そして、そのうち自分も周りも日々過ぎ去っていく日常にあまりにも鈍感になる。遺体の発見というショッキングな事件でさえ、朝食のちょっとした話題として 片付けられる。そのようなことが繰り返すと、自身のアイデンティティさえ曖昧になっていく。   

 過去はぼんやりとしている。古い日々の上に薄い膜がかぶさってしまっているみたいだ私が経験したと思っていることが本当に私の身に起こったことかどうかさえよくわからない。(117)

 

 しかし、それでも事件の被害者のように、「真の変化」はやってくる。ただ、その兆しを周りが見せることもないし、たとえやってきても前と何かが変わることはない。その恐怖を被害者に重ね合わせたとき、知らないうちに自分が自分の人生を歩んでいるという感覚をなくしていき、気づかないまま一切の無になるのではないかという恐怖に駆られるのである。いつ何時、人生を揺るがす決定的な出来事が起こるかわからない。それは明日かもしれないし10年後かもしれない。知らないうちに「こんな沢山の水が、こんな近くにある(So Much Water So Much Close To Home)」ことになるだろう予感を、彼女だけが感じているし、そのうち感じなくなることを恐れている。

 

 

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (中公文庫)

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (中公文庫)

 

 

フォークナー『八月の光』

ウィリアム・フォークナーと言えば、アメリカのみならず20世紀を代表する世界的作家と言われている。フォークナーを読んだことのない英文科の卒業生はいないだろうが、それでも、この作家を愛読する日本人はどれだけいるだろうか。

 

フォークナーとの出会いは大学一年生の冬休みだった。翌年から西洋史専攻になることが決まり、アメリカ史でも学ぼうかとぼんやり考えていた当時、雑貨店っぽさを売りにした某書店で、平積みされていた加島祥造訳『八月の光』を偶然目にした。表紙に描かれた淡く綺麗な平野の絵に目を奪われ(この表紙が気に入って表紙買いした人も多いのではないだろうか)、さらに、裏表紙の「…現代における人間の疎外と孤立を扱った象徴的な作品」という哲学的な宣伝文句に惹かれて衝動買いした。

 

この作品を初めて読んだときの感動は今でもよく覚えている。「これが小説なんだ、これこそ文学なんだ」という言葉を何度も呟いた(後にアメリカ文学の講義で、教授が全く同じ感想を言ったことには驚いたが…)。とは言え、それは当時の自分がその感動を上手く言葉に出来なかったからでもある。フィッツジェラルドヘミングウェイにはない、南部文学の土臭さ、田舎臭さに戸惑ったし、なによりクリスマスとリーナ以外の、脇役と呼ぶには勿体無いほど多くの個性的な登場人物が、象徴的な部分でどう結びつくのか、そして全体として何を言わんとしているのか分からなかった。それでも、夢中でページをめくり、全て読み終えたとき、あの『グレート・ギャツビー』でさえ薄っぺらく感じた。そして、20世紀のアメリカ文学を知ったような気になっていた自分が妙に情けなくなってしまったのだ。もちろん『ギャツビー』がアメリカ人の心を強く揺さぶるような「アメリカらしさ」を持つのは間違いない。それでも、フォークナーの描くアメリカ南部は、それまで抱いていたアメリカ像を根底から覆しただけでなく、他のアメリカ小説にはない質的に違った感触(ほとんどトラウマに近いもの)を自分に残していった。

 

今年の10・11月に岩波文庫から出た諏訪部浩一訳『八月の光』を読んで感じたのは、この物語が、非常にコンパクトで説得力を持った南部社会の縮図になっているということだ。

 

クリスマス、リーナ、ハイタワーの3人は南部の何かしらを象徴している。クリスマスが人種差別だとすれば、リーナは南部淑女、ハイタワーは南北戦争の記憶だろうか。この3つは南部白人精神の柱のようなものだと思うのだが、それらが彼ら(彼女ら)を通じて歪曲的に表現されている。混血の差別主義者、南部淑女たろうとする未婚の女性、神(教会)に見捨てられた牧師。彼らは南部白人社会の腫れモノであり、それは南部的価値観の境界にいることを意味する。そして、自身と社会との折り合いを模索する、言わば社会の異端者である。クリスマスがその境界線を越えようとすれば、一方でリーナは中心を目指し、ハイタワーはそこに留まる。さらに、南部白人観の境界は生と死をも連想させ、クリスマスはそれを踏み越え死んでいく。ここでの死=向こう側は顔のない(作中で名前が与えられない)黒人たちとも結びついている。黒人であることはそれほどの罪深さをもっているのだ。一方のハイタワー牧師は生死を司る番人である。クリスマスに死に場所を提供し、また、リーナからは赤子を引っ張り出してやる。

 

南部の伝統と理想の周辺で異端者がひしめき、いつでも崩壊しそうな脆い社会(実際、この約30年後には「南部の伝統様式(the southern way of life)」は境界の向こう側に住む黒人によって崩された)をすんでのところで支えるのは、なんといっても南部女性の逞しさと優しさだろう。物語冒頭に頭が弱そうな印象をもつリーナでさえ、後半になると全てを包み込む母性的な強さを見せ始め、読者は物語に登場する女性皆が、同じように力強いイメージで描かれていることに気づく(それに比べ、男はなんと弱く愚かなのだろう)。

 

ある意味では、この物語は南部白人社会の見取り図である。この小説を読み、改めて思うのはアメリカ南部の手強さである。南部こそアメリカのエッセンスが詰まっている、そう感じさせる小説だ。

 

最後に、翻訳について、岩波文庫の諏訪部訳(新訳)と新潮文庫加島祥造訳(旧訳)を比べると、全体的に前者の方が読みやすかった。しかし、ところどころ分かりにくい部分もあり、それは原文自体の独特な表現による。今回初めて分かったが、加島訳ではそこらへんを読みやすい形で書き直している。加島訳は今でも古びていない名訳と言えるが、諏訪部浩一先生の信頼できる解説と丁寧な注解、新訳らしい読みやすい日本語を考えると、岩波文庫が今後のスタンダードになっていくのではないか。

八月の光(上) (岩波文庫)

八月の光(上) (岩波文庫)

八月の光(下) (岩波文庫)

八月の光(下) (岩波文庫)

 

八月の光 (新潮文庫)

八月の光 (新潮文庫)